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みなさん、おはようございます。
本日も、マルコの福音書の中から、ともにみことばを味わっていきたいと思います。
幼い娘が汚れた霊に取り憑かれて、たいへん苦しんでいた母親がいました。
イエスさまならば助けてくれるはずと信じて、その足元にひれ伏して悪霊を追い出してくれるようにと必死で求めます。
しかしそれに対してイエスさまはこう言われたのです。
「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。
子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです」。
まるで謎かけのような答えですが、少なくとも「子犬」が、彼女の娘を指していることだけはわかります。
この時代のイスラエルでは、犬は自分の吐いたもの上を転がる汚い動物、ましてや子犬など、何の役にも立たないもの、といったイメージがありました。
なんとひどいことを言うのか。これが本当に救い主なのか。
多くの人は、ここでイエスさまが語っておられる、容赦ない言葉のゆえにつまずいてしまいます。
しかしその容赦ないイエスさまの言葉は、この女性の信仰をさらに高みに引き上げるためのものであったことをどう読み取っていただきたいと思います。
同じようなことが、言葉ではなく、実際の出来事として私たちの上には起こります。
つまり、これが本当に愛の神が与えることなのかと思うような、苦しいこと、悲しいこと、傷つけられるような出来事が、私たちの上に起こります。
しかしどんなことであっても、それが私たちの上に起こる背後には、神さまが用意された愛のご計画があると信じることができる人は幸いです。
この女性もまたそうでした。
イエスさまの言葉を受け止め、最後には確かに娘のいやしをいただいたのです。
今日の聖書箇所を読み解くにあたり、まず私たちはイエスさまのことばをつぶさに見ていくことにしましょう。
「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません」。
この「子どもたち」とはだれのことなのか。
結論から先に言えば、それはユダヤ人、すなわちイスラエル民族のことでした。
イエスさまは、すべての人にとっての救い主ですが、十字架にかかられるまでの三年半の公生涯の中で、働きを絞らなければなりませんでした。
やがては世界のあらゆる人々にむけて福音が語られていくことは確かなことでしたが、そのためには限られた時間の中で弟子を育てなければなりません。
ですから、イエスさまの宣教の働きは、ご自分の民である、ユダヤ人に限られていたのです。
「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません」とは、イエスさまに与えられた限られた時間の中で、まずユダヤ人に対しての伝道を優先しておられた、ということです。
それに対してこの女性はギリシア人でした。
シリア・フェニキアの生まれであったとも書かれていますが、いずれにしてもユダヤ人ではなく、外国人です。
たとえユダヤ人から犬と言われてもガマンできる。
ユダヤ人から自分の子どもを子犬と呼ばれようと耐えてみせる。
でもユダヤ人でも、イエスさまだけは違うと信じていたのに、そのイエス本人から娘を子犬と呼ばれ、子犬にパンを投げてやるのはよくないことです、などと言われてしまっては、いったいどこに救いを求めたら良いのか。
もし私がこの女性の立場であったなら、悔しさで顔を真っ赤にし、イエスに平手打ちして帰って行ったかもしれません。
しかしそんな場面を頭の中で想像してみたとき、私に平手打ちされるイエスさまは、それまでどこを見つめていたのだろうかというイメージが迫ってきました。
確かにイエスさまの言葉は、単純に見れば、冷淡そのものに見えます。
しかしその冷淡な言葉を発するときも、イエスさまはどこを見つめながら語っていたのでしょうか。
彼女の方を見向きもせずに、さぞめんどくさそうに語っていたのでしょうか。
決してそうではなかったでしょう。
常にこの女性を真っ正面から見つめながら、この容赦ない言葉を語られたはずです。
子犬という残酷な言葉を発するときも、彼女の目をまっすぐに見つめながら、語っていたはずです。
彼女の信仰をより高みへ導くために、イエスさまはあえて冷たい言葉を用い、それに彼女がどう答えるかを見つめておられたのです。
私たちは、信仰生活の中でさまざまな問題に直面します。
神さまからすぐに助けが差しのばされることもありますが、多くの場合、待機と忍耐を強いられます。
神がすべての計画を導いておられるのであれば、なぜこんなことが次から次へと起きてくるのか。
まるで神ご自身がもっとも大きな壁となって立ちはだかっているとしか思えないことさえも起こります。
しかしそれは、神が私たちの信仰をより高みへと引き上げるための、神の試練です。
今から400年前、この箇所から語った牧師(もちろん外国人ですが)は、こんな言葉を残しています。
「信仰は、神の荒々しい一撃からさえも、その愛と優しさをかぎわけることができる力である」と。
信仰とは、何か問題が起こったらすぐに逃げ出して神の懐に飛び込むといった、現実逃避のための安易な手段ではありません。
追い迫る問題の一つ一つの中に、神の愛と優しさをかぎわけ、その壁を乗り越えるための力を与えてくれるのが信仰です。
そしてこの女性は、イエス・キリストご自身が壁となって立ちふさがる状況の中で、その壁を信仰によって越えていきました。
この女性はただ一言で、彼女の持てる信仰のすべてを表しました。28節をご覧ください。
「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます」。
彼女は、イエスさまが謎かけのように語られた「子ども、パン、小犬」というたとえを一瞬で理解するほどに目が開かれていました。
そして本来、神の子どもであるユダヤ人の宗教指導者たちが、イエスさまを救い主として信じず、その恵みを拒み続けたことも知っていました。
そのうえで、私は犬であり、娘は子犬と蔑まれていても、子どもたちが拒んで床の上に捨てているパン屑をいただきとうございます、と訴えました。
その信仰に対して、イエスさまは答えました。
「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました」。
ここは「そこまで言うのなら」というよりは、「よくぞ申した」というやや古めかしい訳のほうが合っていることでしょう。
まさにイエスさまはこの女性の信仰に、目を細めて喜び、恵みを与えてくださったのです。
もしあなたの目の前にある現実が絶望的でも、決して気落ちしてはなりません。
信仰の試練を通して、私たちは神の荒々しい一撃からさえも、愛と優しさをかぎわける信仰の高みへと引き上げられます。
それはただみことばだけに希望をおく信仰。
出口の見えないトンネルというたとえがありますが、出口どころか、壁の隙間から差し込むわずかな光も、出口から吹き込む風の動きも感じられない絶望的状況でも、決して勇気を失わない信仰。
それは、ただ神のみことばを素直に受け止め、ただそこにすがりついていく、この女性のような信仰です。
どうかこの一週間、この一ヶ月も、今日みことばにあずかった一人ひとりがそのような信仰の高みへと引き上げられていきますように。