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みなさん、おはようございます。
まさに酷暑という言葉がぴったりの毎日ですが、こうして礼拝にそれぞれが導かれたことを心から感謝します。
また、来たる8月15日は、80回目の終戦記念日となりますが、平和の意味もかみしめながら歩んでいきたいと願います。
今日の礼拝説教では、イエスさまが山上で語られた八福の教えのうちの三番目、「柔和な者は幸いです」という言葉を味わいます。
「柔和」という言葉についてはこの後触れますが、人間同士が敵意と争いの連鎖に陥ることがないように与えられた徳が、この「柔和」というものであるのかもしれません。
今日は、イエスさまの言葉と、その元になっているダビデ詩篇の両方のみことばを比べながら、「柔和な者の幸い」を語らせていただきます。
さて、皆さんは柔和という言葉にどのようなイメージを持っておられますか。
どれだけ悪口を言われても罵り返さず、どれだけいじめられても笑顔で受け流すような、いかにも日本人好みの言葉、という感じがします。
ただし漢字というのは時々人を裏切ります。
小学生の夏休みのことですが、難しい四文字熟語を百個集めてくるという宿題がありました。
辞書を開いて適当に四文字熟語を集めるのはNGで、両親や兄弟に聞いたり、町の看板から見つけること。
とにかく楽して集めるのはだめという、いかにも昭和的な宿題でした。
「言語道断」「才色兼備」「文武両道」「弱肉強食」などいろいろ集めてノートに書いていたら、中学校に上がったばかりの姉が、「伸之にぴったりの言葉があるよ、優柔不断」。
聞いたことがない言葉だったので、「どんな字」と聞くと、「優しい」「柔らかい」「断らない」。
おお、まさにぴったり。
ところが後から親に聞いたら、「優柔不断」というのはぐずぐずして決断力に乏しい人というのです。
日本語ってこええなあ、と思いました。
今のはほんの余談ですが、「柔和」という言葉も、日本人にとっては大らかでいいね、という風に聞こえますが、実際にイエス様が群衆に語られたとき、彼らは日本人とは真逆の反応を示したかもしれません。
というのは、この八福の教えは、上の句でガッカリ、下の句でちょっと待てよと考えさせるパターンだからです。
たとえば「心の貧しい者は幸いです、彼らは満ち足りるからです」「悲しむ者は幸いです、彼らは慰められるからです」と今まで語られてきました。
「心が貧しい」も「悲しむ」も、人生にとってガッカリな言葉です。
しかしガッカリな言葉でも、かみしめているうちにあれ、これって逆に幸いなのかな、と後からジワーッと来るスルメのようなみことばが八福の教えです。
「柔和」は、島国に生きてきた日本人にとっては、人間関係の潤滑油みたいなものですが、三大陸のど真ん中に位置するイスラエル、四千年間、常に領土を奪い奪われ、殺し殺されという場所に生きていた人々にとっては、「柔和」はむしろ悪徳として受け止められていたのかもしれません。
イエスさまの時代、彼らユダヤ人はローマ帝国の支配下にありました。
「地を受け継ぐ」という言葉は、ローマ帝国から、神の土地である自分たちの国を取り返す、というものを連想させたことでしょう。
そのためには、柔和はかえって邪魔なのです。
それは現在のイスラエル国家が、どうしてあそこまでガザに対して徹底的な攻撃を続けるのか、という疑問にも通じるかもしれません。
イスラエルだけでなく、あの中近東の国々にとっては、たった一平米の国土が、人百人の命よりも重いのです。
その重さのはかりは、敵国だけではなく自国民に対してもそうです。
国民にどれだけ多くの犠牲を強いたとしても、奪われた土地は奪い返す。
ですから、柔和、つまり大らかであることと、地を受け継ぐこととは真逆のものとして、イエスさまの言葉は受け止められたことでしょう。
しかしここで私たちは、旧約聖書から学びます。
イエス様が人々に、柔和な者の幸いを語ったときから約千年前、ダビデもまた、「柔和な人は地を受け継ぐ」と詩篇37篇の中で語っています。
国家が国土に執着し、人が財産に執着するとき、本来神が与えてくださっている恵みも見えなくなってしまいます。
ダビデは、そのような狭い目線で生きることをやめ、神が信仰者に与えられた「永遠」という視点の中でこそ生きるように薦めています。1節をお読みします。
「悪を行う者に腹を立てるな。
不正を行う者にねたみを起こすな。
彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだから」。
ユダヤ人であれローマ人であれ、悪を行う者は、今は栄えているように見えても、やがて枯れてしまう青草のようなものだ。
むしろ彼らが悪だからといって怒りを燃やし、攻撃するとき、その人は自分に与えられた神の恵みを忘れ、怒りに心を奪われてしまうのだ、と。
人間というものは、自分が直接的に被害を受けていなくても、不正をニュースやSNSで知るだけで、簡単に怒りの感情に囚われる生き物です。
クリスチャンの場合には、時として、神さまが与えられた聖なる怒りというのもありますが、聖書の歴史書を見ると、それはアブラハムやパウロであっても一生に数回あるかどうかという程度です。
ほとんどの場合、クリスチャンであっても、怒っているときは神のことを忘れているし、極端なときは、この私の怒りは神の栄光のためだとか正当化することもあります。
「柔和」を表すギリシャ語は、もともとは馬の手綱を意味しました。
手綱によって、馬は乗り手の支配下に置かれます。
聖書には、モーセやイエスさまが柔和な人であったと書かれていますが、それは人に優しいとか大らかということではなくて、神のみこころに完全に従い、自分自身を神さまに明け渡した生き様であった、ということです。
では私たちが怒りに心を明け渡さず、むしろ神に明け渡すにはどうしたらよいでしょうか。
ダビデは4節、5節でこう語ります。
「主を自らの喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
あなたの道を主にゆだねよ。
主が成し遂げてくださる」。
怒りの感情に支配されるとき、私たちは物事をその場で決着させようとしています。
傷ついた、傷つけられた、それを売り言葉に買い言葉で相手にぶつけます。
そこで相手が謝ったり言葉に窮すれば、こちらの勝ち。
しかし怒りから始まったものは、たとえ口げんかで勝っても、後味の悪さは消えません。
クリスチャンの場合は、やがて内なる御霊の声に従って悔い改め、和解へと向かうこともできますが、そうでない人々はいつまでも恨みの応酬を続けることでしょう。
今も、世界中の多くの場所で、戦いが行われ、それは世代を超えていつまでも続いています。
なぜか。
彼らは神が約束された永遠を知らないからです。
永遠のいのちを否定し、永遠の御国をクリスチャンの想像だと言います。
しかし私たちは、勝った負けたで一喜一憂するような狭く短い人生に生きてはいません。
人生80年時代と言われ、奇しくも今年は戦後80年を迎えますが、人生の中で起こる屈辱、戦争の中で生まれた恨みの連鎖、それは神の永遠という尺度の中ではいかにもむなしいものとなります。80年であろうが三日であろうが、永遠に比べたら、どちらも芥子粒のようなものでしかないのです。
だからこそ私たちは今、「柔和な者は幸いです。
彼らは地を受け継ぐからです」と告白します。
神のみこころに自分自身を明け渡して生きるならば、この地上でどんなことが起ころうとも、永遠の御国を受け継ぐ者たちを神の恵みから引き離すことはできないのです。
これからの一週間も、イエス・キリストのみことばをかみしめながら歩んでいきましょう。