説教論
「さらに、自戒も含みつつ、今日の説教者に対して批判せざるを得ないことがある。それは、なぜみことばを取り扱うことに対して緊張しないのか、ということである。もちろん緊張している者は多くいる。しかしそれはみことばを取り扱う緊張ではなく、大勢の前…
バルトの聖書論及び説教論が、可謬的な人間の言葉が「神の言葉になる」という命題に尽きることは既に述べた。福音派陣営からは、シカゴ宣言が示すように、「神の言葉になる、ではなく、神の言葉である」という言語十全霊感によって、この命題に反論を示して…
「人間の言葉を通してなされる説教がどうして神の言葉になるのか」。説教論の焦眉となる命題は恐らくこれに尽きるだろう。しかし福音派においてこの命題が真剣に取り扱われてこなかったのはなぜだろうか。自明の理として片づけられてしまっているのだろうか…
第4章 「緊張の説教」と「神の言葉化の神学」 前章で、「緊張の説教」の三一的定義を行った。従前の説教論が「聖書・説教者・聴衆」という三要素を重視するように、緊張の説教においてもそれらが本来指向する「何を・誰が・誰に」語るのかという枠組みを決し…
一般に、説教論は説教者(語り手)と会衆(聞き手)の関係性の中で論じられる傾向にある。説教者は「聖霊の通りよき管として」用いられることを祈りつつ神の言葉を語り、会衆はそれに傾聴し、応答の賛美をし、献金をし、祈りをささげる。福音派の教会におい…
前章において、説教史における「緊張の説教」が決して特殊な例でないことを確認した。緊張の説教は預言者や使徒たちの説教に発し宗教改革において再顧され、現代へと続く。その歴史が意味するところはこうである。数千年間、神の民が醸成してきた神学的理解…
第三章 緊張の説教論とは何か ドイツ教会闘争下、ヒトラーに抗した告白教会の代表的説教者であるハンス・ヨアヒム・イーヴァントは、説教者の責任について次のように述べている。 啓示の職務、神の言葉の職務によって我々に委ねられた責任は、まことに恐るべ…
宗教改革が生み出したカトリックとプロテスタントの対立は、その後三十年戦争という悲劇的結末を迎える。その厄禍はあまりにも大きかった。そしてルターやカルヴァンが再発見した、神の言葉のダイナミズムは彼らの直系の子孫よりはピューリタニズムや敬虔主…
この緊張意識は、その後の古代教会においては説教だけではなく信仰告白の整備といったかたちでも継承されていった。そこにはユダヤ主義やグノーシス主義といった思想的対決、また皇帝教皇主義などとの政治的対決といった外的要因が大きく関わっている。しか…
第二章 「緊張の説教」の歴史的文脈 後藤光三は『説教論』の中で、「三千人の悔い改めという、キリスト教会最初の出発を飾る奇跡的な勝利は、実に聖霊降臨の結果として行なわれた大伝道の際の、ペテロ初め11人の使徒たちの説教によるものであった(10)」と述…
今日、説教の無力さを覆い隠すかのように様々な「牧会的」試みや言葉が溢れかえっている。弟子訓練やセルグループ、生活適用誘導型デボーションテキスト、アダルトチルドレンなどの心療カウンセリング、「健康な教会」、「教会が成長するための原則」など、…
ドイツの神学者H.J.クラウスは「おそれとおののきの中で生きることが恵みの最高のしるしである」というルターの言葉をひきながら、今日の「説教者は、生ける神の前でおそれとおののきの代わりに、安心感と不遜のとりことなっており、ひとたび少しでも突風…
第一章 今なぜ「緊張の説教論」か 今日の説教壇を取り巻く状況についての一考察 第一節 「いのち」を与える説教めざして 宗教は今日、人間の幸福のための単なる一手段とか、社会的な一有用物といったところまで、かつてなかったほどに落ち込んでしまった。・・…
神学校の卒業論文(2002年)。十年以上経過していますが、加筆修正はせずに原文のまま掲載します。 序. 神学校三年間の思い出深い授業の一つに説教演習がある。同じ主題や聖書箇所からの説教なのにかくもこれほどと思われるほど各人の個性が現れる。説教の…
神学校の卒業論文(2002年)として提出した「緊張の説教論」です。 あえて一切の加筆修正をしないことに決めました。 まず参考資料(コメント入り)から挙げます。英書は入れておりませんので、ご了解ください。 今では入手できないものもありますが、参考に…