恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「労苦は無駄じゃない」(ヨハネ21:1-14)

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 みなさん、おはようございます。
今日もみことばから私たちへの励ましを味わっていきましょう。
まず2節から3節までをもう一度お読みします。

シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、そして、ほかに二人の弟子が同じところにいた。
シモン・ペテロが彼らに「私は漁に行く」と言った。
すると、彼らは「私たちも一緒に行く」と言った。
彼らは出て行って、小舟に乗り込んだが、その夜は何も捕れなかった。

 舞台はガリラヤ湖、別名ティベリアス湖です。
七人の弟子たちが夜の湖に舟を出しました。
彼らはすでに、十字架にかかり、死を打ち破って復活されたイエス様にお会いしていました。
しかし彼らは今、エルサレムを離れ、遠く離れた故郷のガリラヤに戻ってきています。
かつてイエス様から「人間をとる漁師にしよう」と召命を受けたはずの彼らが、なぜ再び昔の網を手にしているのでしょうか。
そこには、ただ故郷が懐かしかったというだけではない、重く複雑な思いが渦巻いていたのです。

 ペテロの「私は漁に行く」という短い言葉。
ここには、深い「やるせなさ」と「焦燥感」が滲んでいます。
復活の主に出会い、心は確かに喜びに燃えたはずでした。
しかし、だからといって、目の前の現実の生活がすぐに魔法のように好転したわけではありません。
これから先、どうやって家族を養い、生きていけばいいのか。
自分たちのような、一度主を見捨てて逃げ出してしまった弱い者が、本当に主の御用に立つことなどできるのだろうか。
理想と現実のギャップ、そして拭いきれない不安。
彼らは、弟子として本来歩むべき道を見失い、「とにかく、今自分にできること、昔の生活に戻るしかない」と、ため息をつきながら舟を出したのです。

 彼らはプロの漁師です。
しかし聖書は、「その夜は何もとれなかった」と冷酷な現実を記します。
焦りと不安を抱えながら、生きるために必死で網を打つ。
しかし、引き上げた網には何も入っていない。
腕が痛くなるほど網を打ち続けても、成果は何一つない。
この弟子たちの姿は、どこか私たちの姿に似ていないでしょうか。
信仰を持ち、主の愛を知りながらも、日々の生活の重圧や、ままならない現実の前に、「自分が何とかしなければ」と焦り、必死に網を打ちながらも、どこか空回りしている。
そんな言葉にできない徒労感を抱える私たちの夜が、このガリラヤ湖の情景に重なってくるのです。

 しかし、その夜が明けようとしていた時、湖の岸辺に一人の人が立っていました。
イエス様です。
弟子たちは、それがイエス様だとは気づきませんでした。
私たちの人生でも同じです。
不安や疲労で心が支配されている時、私たちはすぐそばにおられる主の存在を見失ってしまうことがあります。
イエス様は彼らに「子どもたちよ、食べる魚がありませんね」と、日常の必要を気遣う温かい言葉をかけられます。
そして「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます」と命じられました。
プロの漁師からすれば、夜が明けてから、しかも素人の言う通りに網を打つなど常識外れです。
しかし彼らは、これまで頼りにしてきた自分の経験や判断を一旦手放し、その不思議な声に従って網を打ちました。
するとどうでしょう。引き上げることができないほど、153匹もの大きな魚で網が満たされたのです。
ここに、私たちが学ぶべき大切な真理があります。
私たちの人生の舟を満たすのは、私たちの焦りや必死の努力ではなく、主の御言葉への静かな従順なのです。
自分の力で何とかしようとする「自我」の握りこぶしを開き、主の言葉に委ねた時、神様は私たちが想像する以上の豊かな恵みで、空っぽの網を満たしてくださるのです。
私たちが抱える日々の課題に、この真理を重ねてみましょう。
生活の糧を得る苦労、成長していく子どもたちへの接し方の戸惑い、そして新しくなった教会のこれからの歩み。
私たちは「自分が養わなければ」「自分が正しく導かなければ」と、見えない重圧を背負い込んでいないでしょうか。

 ここで、一つの歴史的な実話をご紹介したいと思います。
19世紀のイギリスで、孤児院を運営していたジョージ・ミュラーという牧師のエピソードです。
ある朝、数百人の子どもたちがいる孤児院の食堂には、パンもミルクも全くありませんでした。
どうすることもできない絶望的な状況です。
しかしミュラーは、子どもたちを空っぽの皿の前に座らせ、「主よ、私たちがこれからいただく糧を感謝します」と祈りを捧げました。
彼もまた、愛する子どもたちの命と施設の運営という重圧を前にして、自分の力ではどうにもならない『空っぽの舟』の中にいたのです。
祈り終えた直後、玄関のドアが叩かれました。地元のパン屋でした。
「夜中にどうしても眠れず、神様からあなた方のためにパンを焼くように示された気がして、焼きたてのパンを持ってきました」。
さらにその直後、今度は牛乳配達の馬車が孤児院の前で車輪を壊して立ち往生し、牛乳が悪くなる前にすべて寄付したいと申し出てきたのです。
主は、ご自身を信頼し、従う者の必要を、時に私たちの想像をはるかに超えた方法で、必ず満たしてくださいます。

 弟子たちが岸に上がると、そこには驚くべき光景がありました。
イエス様がすでに炭火をおこし、魚とパンを焼いて待っておられたのです。
主は私たちの救いも日常の必要も、ご自身で完全に備えることができる方です。
しかし主は、ここで不思議なことを言われます。「今捕った魚を何匹か持って来なさい」。
すべてを用意できるはずの主が、あえて弟子たちの獲物を求められたのです。

 ここに主の深い愛があります。
主は、「あなたがたが悩みながら流した汗や、夜通し網を打ったその労苦は、決して無駄ではなかったのだよ」と、彼らの努力を優しく肯定し、ご自身の恵みの食卓に加えてくださったのです。
私たちが生活のために流す汗も、子どもたちのために祈る涙も、教会の未来を思って捧げる小さな奉仕も、決して無駄にはなりません。
主は「全部あなたが背負わなくていい。でも、あなたのその尊い労苦を私の食卓に持ってきなさい」と、喜んで受け取ってくださるのです。

 私たちは自分の無力さを恥じる必要はありません。
主が用意してくださったこの礼拝の食卓で心と体を温め、私たちの小さな営みを主の大きな御手に委ねましょう。
平安のうちに、新しい一週間へと共に舟を漕ぎ出していきましょう。お祈りいたします。