恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「一人になってこそ聞こえるもの」(第一列王19:1-14)

真ん中の再生ボタンを押さず、左下の「見る▶YouTube」を押すと聖書朗読およびメッセージの開始タイミングに直接ジャンプできます

ここをクリックすると説教原稿が出てきます

 みなさん、おはようございます。

 今日の説教は旧約聖書から、預言者エリヤについて語らせていただきます。
とはいえ、今日の聖書箇所に出てくるのは、預言者エリヤの華々しい活躍ぶりではありません。
むしろ、この直前に描かれている、バアルの預言者に対する大勝利から一転しての、エリヤのどうしようもない疲れと無力感です。
しかし神は彼を見捨てず、静かに、じっくりと、取り扱われるのですね。
今日の箇所を読むと、エリヤについて少しでも知っている方は、これがあの大預言者エリヤなのかと思うほどに、情けない姿をさらしていると感じることでしょう。
エリヤがバアルの預言者たちを皆殺しにしたと聞いた王妃イゼベルは、「今から24時間以内にぶっ殺してやる」とエリヤを脅迫するわけです。
するとエリヤは何と荒野から一日の道のりまで逃げていくのです。
「自分のいのちを救うために」とありますが、彼は神さまに「私のいのちを取ってください」と祈っています。
もう疲れてしまった。何もしたくない。
このまま死んでもいいですわ、という投げやりな姿を感じます。
もちろん、本人は真剣なのでしょうが。

 昨日までバリバリ働いていた人が、今日になってガクッと落ち込んでいる、これは決して珍しいことではありません。
一つのことを成し遂げたとき、私たちには達成感が生まれます。
しかしその達成感は麻薬にも似ています。
自分の内側に疲労がたまり、それが臨界点にまで達していることを忘れさせてしまうからです。
クリスチャンの場合には、さらにやっかいです。
神のため、教会のため、それが喜びや自発性から生まれるのではなく、自分がやらなければ立ちゆかないという歪んだ使命感に結びつくと、自分を客観的に見つめることができなくなります。
信徒の場合、牧師が「そこまで」と言ってくれると手を離すことができるのですが、牧師の場合、どこまでやっても牧会の一区切りが見えず、ひたすら走り続けるということもあるのです。

 いやいや、本物の信仰者は走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
疲れるのは信仰がないからではないか、という人もいます。
しかしもしそうであれば、ダビデが作った詩篇の多くは生まれなかったことでしょう。
信仰があるからこそ、ダビデは疲れ苦しみました。
神が遠いと感じ、神に向かって叫びました。
信仰があるから疲れないということはないのです。
では信仰とは何か。
それは、この世で常にトップギア、ハイスピードで走り続けることを求められている私たちが、しばし神の前に静まるようにという神の招きです。
信仰をもって静まるとき、神はエリヤ、そして私たちにこう語られます。
「あなたはここで何をしているのか」。
それは決して責めているのではありません。むしろ招いているのです。
どんなに華々しい勝利を収めても、それは私たちではなく神が与えてくださったもの。
私たちはそれに気づかず、高ぶり、知らないうちに疲れを宿している。
だからこそ御前に静まり、みことばに自分の姿を映し、恵みをかみしめながらたましいを安らがせること、それが大切、いや、必要なことです。

 「あなたはここで何をしているのか」という呼びかけに、エリヤは今まで自分が行ってきたこと、それに対する民の姿を訴えました。
しかしそこで神は、エリヤは外へ連れ出し、嵐、地震、炎を体験させます。
しかしその中には神はおられなかった。
ただ、火の後にかすかな主の声が聞こえた、とあります。

 エリヤが経験した嵐や地震、炎は、私たちが信仰生活の中で経験する、多くの恵みや勝利を表しています。
しかし恵みの体験や、勝利の体験、それは神が与えてくださるものではあっても、神そのものではありません。
劇的な信仰体験に引きつけられ、かえって神のみことばが聞こえなくなることもあります。
しかし神がおられるところは嵐の中でも炎の中でもない。
エリヤが無力感をおぼえ、もがいていたとき、神は静かな、ごく静かな御声を通して語ってくださいました。
そしてこの経験は、エリヤが神の山ホレブに導かれてのことでした。
つまり私たちにとって、礼拝とは何かということなのです。

 礼拝で大切なことは、そこにどれだけの人が集められるかではありません。
なぜなら礼拝の本質は、それぞれがみことばの前に一人になることだからです。
確かに多くの人が集まります。一緒に賛美をし、告白をします。
でも私たちはここで一人になるのです。一人にならなければならないのです。
自分が抱えている問題、言い換えると、心に空いている穴や傷に対して、神は同じみことばを、それぞれに違った形で語りかけておられます。
私たちは一緒に礼拝を守りつつも、しかし本質的には、それぞれが神と一対一で、みことばを受け取るのです。
そしてそれを分かち合います。
こうしてそれぞれがみことばを受け止めていくとき、これからの一日は昨日までの日々とは異なるものとなるでしょう。
みことばが静かに、しかし確実に、私たちに息吹を与え、永遠のいのちの喜びを溢れさせてくださいます。

 新約聖書の中に、イエスさまが弟子たちを休ませるために、むりやり船に乗り込ませたという記事があります。
弟子たちも、毎日毎日、神の大いなるみわざを経験する中で、いつのまにか心が疲れていたことを主は知っておられ、それゆえにやでもか船で送り出して、寂しいところで休ませたのです。
私たちは、この礼拝を通して、神さまの前に自分の心を注ぎ出しましょう。
自分でも気づいていない、たましいの疲れを神さまに取り扱っていただき、そして新しい一日を、神の恵みを喜び楽しんでいきたいと願います。