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みなさん、おはようございます。
今日の説教は、マルコ福音書の中から、「聖書で十分」というシンプルなタイトルで語らせて頂きたいと思います。
先日、ある方から統一教会やエホバの証人などのキリスト教の異端について質問を受けました。
私たち正統的な教会で教えられていることと、彼らの教えを見分けるのは、決して簡単ではありません。
というのは、彼らは十字架についても語りますし、聖書を神のことばとして認めているからです。
しかし彼らは、聖書や十字架については認めても、聖書だけでは十分ではない、十字架の救いだけでは足りない、というところです。
この「足りない」という意識から、それを満たすための方法として、聖書以外の教典が生み出されます。
しかしそれは神のことばではなく人の言葉にすぎず、そこから組織に都合の良い、さまざまな反社会的な活動や、信者に対する束縛が生み出されていきます。
そしてその異常さに気づかないまま、信者たちは家庭崩壊や、行きすぎた伝道活動や献金を賄うために体を壊し、場合によっては自死にさえ至ります。
今日の聖書箇所に登場するパリサイ人たちは、そんな現代の異端の姿と決して遠く離れていません。
彼らは3節や5節にある「昔の人たちの言い伝え」を、聖書そのものよりも権威のあるものとして、人々に押しつけていました。
彼らからすれば、自分たちは聖書を信じている、昔からの言い伝えは、その聖書をよりわかりやすく解説するものだ、という理屈だったでしょう。
しかしイエスさまは、彼らが自分でも気づいていない間違いに、はっきりと気づいておられました。
8節をご覧ください。
「あなたがたは神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っているのです」。
さらに9節ではこうも言われています。
「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています」。
神の戒め、それは言うまでもなく旧約聖書のことです。
地上のあらゆる民族の中で、神はイスラエルだけを選び、彼らだけにみことばを与えられました。
それは、この神のことばだけにとどまり、この神のことばだけに従って歩みなさい、そしてそれによって、地上のあらゆる民族は、あなたがたの姿を通して、神のことばだけに従う人生の祝福を知るであろう、と神は約束してくださいました。
しかしイスラエル、つまりパリサイ人の先祖たちは聖書に満足できなかったのです。
聖書に言い伝えを付け足していき、これを守らなければ、十分ではないと人々に教えたのです。
食事をする前には手を洗え、市場から帰ってきたら水浴せよ、そんなことは聖書のどこにも書いていません。
杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることも聖書のどこにも書いていません。
後半に書かれているコルバンの規定などは、現代の統一教会のような異端の姿を見ると、あまりにも似通っていることに恐ろしささえ感じます。
両親や子どもたちに与えるべき財産や不動産などを自分たちの団体に寄付させることで家族を分裂や離散に会わせるようなことも平気で行うような人たちと、このパリサイ人たち。
聖書のことばだけでは満たされず、この世での富や栄華を求める宗教指導者たちの醜い姿が、時代を超えてここには描かれています。
しかし、異端の団体だけでなく、私たち正統的教会に所属するクリスチャンの中にも、その芽のようなものは隠れているのです。
聖書だけでは物足りない。
聖書だけでは私の信仰は不十分だ。
信仰を成長させるために、まだ私の試していないことがあるのではないか。
そんな理由から、本来の建徳的な信仰の道を踏み外し、信仰の喜びを見失ってしまう人々を見てきました。
しかし「信仰のため」「成長のため」、そのために神が聖書を与えてくださったのに、その聖書では足りないかのような教会生活は、たいへん危ういものとなります。
旧約聖書の最初の書、創世記には、この世界に罪が入り込んだ原因は、最初の人アダムとエバが、神のことばを守って生きることだけでは不十分だと感じたことから始まった、と記しています。
アダムの妻エバに蛇、すなわち悪魔がこうささやきました。
「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」。
悪魔は人に対して、みことばに対する疑いを起こさせました。
そして善悪の知識の実を食べてごらんなさい、と誘惑しました。
そうすれば、あなたがたの目は開け、神のようになるのだ、と。
聖書は、それだけでいのちを受け取ることのできる神のことばです。
これに従って歩むとき、私たちは救われるのです。
しかしそれで十分なの?もっと目が開かれる方法があるんだよ?悪魔は常にそのように疑いを持たせることで、人を惑わしていきます。
ユダヤ人たちは、聖書だけでは不十分であると、自分たちの言い伝えのほうを優先しました。
そしてキリスト教会の二千年の歴史でも、それが絶え間なく起きてきました。
初代教会の時代には、イエス・キリストを信じる福音だけでは足りない、律法も行わなければ救われない、という異端がはびこりました。
それからしばらくすると、ギリシャ哲学が教会に入り込み、キリストへの信仰だけでは足りない、神から特別の光を受けて、他の人には知り得ない奥義を与えられた者だけがまことのクリスチャンだ、と主張する者が現れました。
手を変え、品を変え、教会は常に誘惑にさらされてきました。
異言が語れなければだめ、悪霊を追い出す力がなければだめ、 細かいところは変わっても、その主張の中心はいつも同じです。
聖書を信じているだけでは足りない、キリストを受け入れただけでは足りない、と。
「蛇足」という中国の故事があります。
何人かが集まったとき、その場に酒が一杯分だけありました。
蛇を最も早く書けた者が、この一杯の酒を手に入れることにしよう。
一番早く書いた者が、杯を手にしながらこう言いました。
「俺が一番だ。まだ余裕がある。蛇に手足も書けるぞ。」
すると隣の男が、蛇には手足などない、おまえの書いたものは偽物の蛇だと、杯を奪い取りました。
ここから余計なものを付け加えることを「蛇足」というようになりました。
私たちの信仰には、言うまでもなく蛇足は必要ありません。
聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ。
蛇足に惑わされないために、私たちは聖書だけに聞くべきです。
聖書にも答えがない、などと言わずに、聖書を何度も何度も読み返す。
この聖書の中に、必ず私への神の答えがあると信じる。信じ続ける。
この時代は、ユーチューブで検索すれば、肉じゃがの作り方から核ミサイルの製造方法まで何でも調べることができます。
「聖書で十分」という言葉は、時代錯誤として笑われますし、その聖書さえ、ネットを開くと、簡単にメッセージに触れることができます。
しかしみなさんは、メッセージではなく、聖書そのものから答えを探し続けてください。
読んでもわからない、というのは言い訳です。
神はクリスチャン一人一人に御霊を与えてくださいました。
その御霊が私たちに必ず聖書を悟らせてくださいます。
もしそれを経験したことがないとしたら、それは初めからあきらめてしまっているからです。
神さまは、聖書66巻の中に、私たちに十分なものを用意してくださいました。
一人一人が、勇気を出して「聖書で十分」と告白することを願います。
イエスさまのことばは聖書の中だけに書かれています。
それ以外には書かれていません。
この一週間も、聖書だけに聞き、聖書だけに従って歩む、そのような信仰生活を進んでいきましょう。