恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「私をあわれんでください」(ルカ18:9-14)

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 みなさん、おはようございます。
今日の礼拝説教では、イエス・キリストのたとえ話の中から、私たちがどのように生きるべきなのかということを考えていきたいと思います。

 最初に9節をお読みします。
「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに、イエスはこのようなたとえを話された」。
たいへんストレートな言い方ですね。
「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たち」。
いったいだれのことでしょうか。
少なくとも私のことではないな、と思えたら、ある意味幸せかもしれません。
しかしここで「たとえ」と書かれている意味は何でしょうか。
別のところでイエスさまは「たとえ」について、こう説明しておられます。
それは、真剣に聞く者にはその心の中で豊かに実を結ぶが、真剣に聞かない者に対しては、ますます心を鈍らせ、かたくなにするものなのだ、と。
つまり、たとえというのは、聞く側の態度によって、いのちに導くものにもなるし、滅びにとどまらせるものにもなる、と。
たいへん恐ろしいものなのです。
もう一度、最初の言葉に戻ってみましょう。
「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たち」。
それはいったい誰のことなのか。
イエス様は、わかりやすいたとえ話を通して、じつは鋭い刃を私たちひとり一人に向けています。
その刃の先を手でつかんで、自分の喉元に近づける者、それがみことばを真剣に聞く、ということです。
一歩間違えれば、その剣は自分の喉を突き刺す。
しかし神のことばが私に語られている。
命をかけてそれを聞くときに、それは私を内側から変える神の力となる、と信じて、自分自身に神のことばをあてはめる者、それが私たちひとり一人であってほしいと願うのです。

 パリサイ人は、私たちひとり一人の中に眠っている、他人を見下し、自分を正しいとする、高ぶった心であると言えましょう。
そして彼はこのように、神の前に祈りました。11節、12節をお読みします。
「神よ、私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。
私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております」。
言葉はたいへん丁寧ですが、祈りと呼ぶのもおこがましい、自己顕示欲の匂いがぷんぷんします。
週に二度断食する者。十分の一を献げている者。
それ自体は悪くなくても、だから私はほかの人々とは違い、神さまに忠実な人間なのだ、とひけらかしています。
それも一つや二つではなく、いくつもの肩書きを並べなければ、満足できないのでしょう。
パリサイ人は勘違いをしていました。
週に二度断食という霊のささげもの、十分の一という肉のささげもの、それらがあたかも神を養っているかのように勘違いをしていました。
だが神は何も必要としていません。
神が人間を養ってくださるのであって、人間が神を養うのではありません。

しかし取税人に目をとめてみましょう。
彼が神さまの前に訴えた言葉は、ただ一つです。
「神様。罪人の私をあわれんでください」。
この違いは明白です。
パリサイ人は、いくつもの肩書きを並べ、そして誰かと比べることでしか、自分を言い表すことができません。
しかし取税人にとって、自分自身を誰とも比べる必要はなく、肩書きもたったひとつです。
「罪人の私」。
それを認めることができるか、できないかが私たちの人生を左右します。
取税人は目を天に向けようともしません。
そして自分の胸をたたいて言いました。「こんな罪人の私をあわれんでください」。

 私たちの中にある、どんなよいものでさえ、神さまの前には汚れたものでしかない。
そのような言葉は、現代では決して受け入れられないでしょう。
しかし昔の説教者はこう言いました。
「私たちの悔い改めの涙でさえも、小羊イエスの血で洗われる必要がある」と。
私たちのもっともよいささげものでさえも、神からの好意のひとかけらすら受けるに値しない。
だからこそ人間は、自分では神を満足させることはできない、それが私たちが救い主を必要としている理由です。
しかし神は、イエス・キリストによって私たちを救ってくださいました。
それは、私たちが何一つ神を喜ばせることができないとしても、この世のどんなものよりも神は私たちを愛してくださっている、ということです。
ひとり子イエス・キリストのいのちをひきかえにしてでも、私たちを滅びから助け出そうとされました。
だから私たちは、その愛に身をうずめましょう。
神がもし私たちを必要としているから私たちを愛したとしたら、それは愛に値しません。
愛は無条件なものだからです。
神がなぜ私を愛するのか。そこに理由はありません。
理由がないからこそ、愛なのです。
このパリサイ人がはまってしまった、人と比べての自分の実績を、パウロはちりあくた、より忠実な翻訳では汚物と呼びました。
私たちもまた、自分の実績から目を背けましょう。

 ダイヤモンドは、人間が宝石を磨くことをおぼえる前から、ダイヤモンドでした。
ダイヤモンドの原石を磨くことを見つけたのは人間ですが、それがなくてもダイヤモンドはダイヤモンドだったのです。
この意味がわかるでしょうか。
だれかがあなたを必要としているから、あなたの人生は価値があるということではありません。
あなたがこの地上に神によって作られ、見いだされ、ここに今生きているということ、そのものの中に価値があります。
これからの一週間、神の無条件の愛をかみしめながら、歩んでいきたいと思います。