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みなさん、おはようございます。
先週の礼拝メッセージでは、イエスさまがツロ・フェニキア地方というところにまで行かれて、外国人女性の幼い娘から悪霊を追い出すという出来事について語りました。
そのときイエス様は、その娘本人には会っていません。
家から遠く離れたところでイエスさまに助けを求めてきた、その女の子の母親の信仰をご覧になって、
「家に帰りなさい。あなたの娘から悪霊は出て行きました」と約束してくださいました。
そして母親が家に帰ると、確かに娘にとりついていた悪い霊はいなくなっていた、というところで物語は終わっています。
このように、イエス・キリストは、ただ言葉だけで病の人をいやし、ただ言葉だけで悪霊を追い出し、ただ言葉だけで人をよみがえらせることのできるお方です。
しかし今日の物語では、言葉だけで何でもおできになるイエスさまが、耳が聞こえず、口がきけない人に対して、指を両耳に入れ、唾をつけてその舌に触られたということが描かれています。
ここに私たちは、先週の物語とは別の意味で、励ましを受けるのです。
先週の物語は、母親の信仰を喜んだイエスさまが、遠く離れたところにいる娘を一瞬でいやしてくださる、いわば、私たちの想像を超えた大きなお方、ということでした。
しかし今日の物語は、その大きなお方が、私たちの耳の穴に指を差し込み、私たちの舌に触ってくださる、というスキンシップ、私たちひとり一人に直接触れてくださっていやしてくださる、ということが描かれています。
宇宙よりも大きなお方が、けし粒のように小さな私たち一人一人をも決してないがしろにされないのだ、ということです。
このイエスさまが私たちの友であり、救い主であることを心から感謝して歩んでいきたいと思います。
ツロの地方からガリラヤ地方に戻ってきたイエスさまの前に、一人の人が連れてこられました。
耳が聞こえず、言葉を出すこともできません。
彼は音のない世界に生き、言葉を交わせない孤独の中にいました。
人間のコミュニケーションを司る器官の中で、彼には目だけが残されました。
現代であれば、そのような人であっても、音が聞こえず、口が閉ざされていても、筆談、パソコン、スマホなどで、意思を伝えることができるかもしれません。
しかしこの二千年前の時代において、それでも生きる希望を持て、というのは残酷すぎる励ましであったことでしょう。
彼は確かに生きていました。
しかし生きてはいても、この世界の中で、彼は孤独でした。
誰の声も聞こえない。誰にも声を聞かせられない。
世界から切り離されてしまった、いやされることのない疎外感。
それこそが、彼の心を覆っていた闇の正体でした。
現代に生きる私たちも、形は違えど「閉ざされた世界」に生きていることがあります。
誰にも言えない悩み、心の奥にある傷、神との関係が途絶えているように感じる時。
しかしこの聖書箇所は、そんな私たちに語りかけます。
イエスは、閉ざされた者に近づき、触れ、語り、癒してくださるお方なのだ、と。
イエスさまは言葉だけで人をいやすことができます。
しかし言葉だけの関わりでこの人との関係を終わらせたくはなかったのです。
彼だけを群衆の中から連れ出したイエスさまは、そして指を耳に入れ、唾で舌に触れ、天を見上げて深く息を吐き、「エパタ」すなわち「開け」と言われました。
この一連の動作は、単なる儀式ではありません。
イエスの深い共感と祈りの表れです。
彼の痛みを感じ、彼の世界に入り込み、彼の閉ざされた部分に触れられたのです。
私たちが誰にも言えない思いを抱えている時、イエスさまは私たちを連れ出し、一対一で向き合ってくださる方なのです。
「エパタ」とは、アラム語で「開け」という意味です。
「エパタ」はもちろん「開けゴマ」のような呪文ではありません。
しかしこの言葉は、いつの時代においても、耳だけでなく、心、魂、人生そのものを開く言葉です。
「エパタ」だけではありません。
イエスさまの口から出る言葉、すなわち聖書に記されたことばひとつひとつに、閉ざされたものを開く力があります。
傷ついた心に「開け」。
閉じ込められた希望に「開け」。
途絶えた祈りに「開け」。
神のことばは、私たちの内側にある閉ざされた扉を開き、新しい命の息吹を吹き込むのです。
耳が聞こえず、口のきけない人は、イエスさまの指、唾、そして言葉によって、すべてを取り戻しました。
そしてイエスさまはこの奇跡を目撃した人々に対して、「このことをだれにも言ってはならない」と命じられましたが、人々はかえって言い広めました。
それは、神のなさることがあまりにも素晴らしかったからです。
「この方のなさったことは、みなすばらしい。
耳の聞こえない人たちを聞こえるようにし、口のきけない人たちを話せるようにされた」と。
これは、神の働きを目の当たりにした者の自然な反応です。
私たちも、神の恵みを体験したなら、それを語らずにはいられないのです。
証しは、神の栄光を広げる力となります。
そしてその証しは、他の閉ざされた心を開く鍵にもなるのです。
私たち、この豊栄キリスト教会という小さな群に繋がる者たち一人一人の証しが、豊栄はもとより、それぞれが暮らしている場所に至るまで、そしてさらにこの日本そのものを変えていく、ということを、今日の箇所は約束しています。
私たちは決して無力ではありません。
いや、私たちは無力であっても、私たちの中に生きておられる方は、この世界よりも大きなお方なのです。
家庭や職場、近所でクリスチャンは私だけ、という人も多いでしょう。
しかし必ずあなたの証しは実を結んでいくのです。
最後に、今日、あなたの中に閉ざされた部分はありますか?誰にも言えない悩み、祈っても届かないように感じる思い、自分には価値がないと思う心。
イエスさまは、あなたに語られます。
「エパタ」、開け、と。
その言葉は、いやしと希望、そして新しい歩みへの扉を開くのです。
神は、あなたを人々の中から連れ出し、個人的に向き合い、触れ、語りかけてくださいます。
そして、あなたの人生に新しい音を、言葉を、証しを与えてくださるのです。
それでは、祈りましょう。
主よ、私たちの閉ざされた心に、あなたの言葉「エパタ」を語ってください。
あなたの優しさと力によって、私たちの耳を開き、口を開いて、あなたの恵みを語る者としてください。
私たちがあなたの癒しを体験し、それを証しとして広める者となれますように。アーメン。