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みなさん、おはようございます。
今日もイエスさまが語られたみことばを通して、私たちは恵みをいただきたいと願います。
しかし今日の箇所も、イエスさまのみことばは、厳しい言葉だなあと思います。
この前、コロナウイルスの新しい変異種の特徴が、まるでカミソリを口から飲み込むような喉の痛みということを紹介しましたが、まさにイエスさまの言葉は厳しいどころか、カミソリのを飲み込むほどに恐ろしいと言ってもよいかもしれません。20節でイエスさまは弟子たちに言われました。
「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。」
そして続く21節からは、その「人から出て来るもの」を、これでもかこれでもかというくらいに挙げています。
「悪い考え、淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪い行い、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさ」。
イエスさまの口をふさぎ、私たちの耳をふさぎたいくらいの罪と汚れのオンパレード。
しかしそれが人の内側から発し、外にしみ出していくものなのだ、と言うのです。
この箇所は、もともとはパリサイ人たちがイエスさまの弟子たちに対して、なぜ食事の前に手を洗わないのかと非難したところから始まっています。
彼らは何かを食べるという行為は、汚れたものが自分の中に入ってくることだ、という教えを、昔からの言い伝えとして守っていました。
だから手を洗え、からだを洗え、器を洗え、と、本来神さまが命じてもいないことをあらゆる人々に強要していたのです。
しかしイエスさまは、外から入ってくる食べ物で、人を汚すものなど何もないのだ、はっきり宣言されました。
人を汚すもの、それは外から入ってくるのではなく、もともと自分の中に潜んでおり、それが人の内側から出てくるものなのだ、と。
それが先ほど触れた、悪い考えや、淫らな行いといったオンパレードです。
悪いものはすべて人の内側から起こってきて人を汚す、外からは入ってこない、とイエスさまは言われました。
それではよいものはどこから来るのか。
私たちの中からは悪いものだけではなく良いものも出てくると言えることができたら、どれだけ良いことでしょうか。
しかし聖書が教えていることは、私たちを絶望させるのです。
悪いものはすべて人の内側から出てくる。
そして良いものは人の中からは決して出てこない、と。
もし人の中からも良いものがたとえわずかであっても出てくるようであれば、私たちにイエス・キリストは必要なかったでしょう。
もし生まれつきの人の中に、わずかでもよいものがあるとしたら、それにしがみついていけばいい。
事実、世の中の多くの人はそういう人生観の中で生きています。100%善人がいないように、100%悪人もいない。
だからこの世の中、捨てたものじゃない、と。
しかし聖書は、人間もこの世界も、そんな生やさしいものではないと教えています。
神に作られた最初の人間アダムとエバは、神の最高傑作でした。
しかし神のことばを破ったとき、彼らの中に罪と死が生まれました。
それ以来、彼らの子孫であるあらゆる人間は神にのろわれた汚れたものとなり、人が作り上げる世界は、傍目には美しく見えてもそれは滅びに向かって走り続けるものになりました。
いまや人は、99%の闇の中に1%の光が宿っているようなものではありません。100%の闇。
真っ暗闇です。
闇にうごめくあらゆる人々は、まことの神がわかりません。
ですから自分で神を作り出し、それを拝みます。
それを聖書では偶像礼拝と呼んでいます。
しかしどんなに偶像を拝んでもそこに救いはなく、満足もありません。
常に偶像をとっかえひっかえして、信じる対象も変えていく。
それがあらゆる人々の姿です。
これは、世の中の人には受け入れがたいことでしょう。
なぜならあなたがその真っ暗闇の人間なのだと言われているわけですから、とうてい認めたくないからです。
クリスチャンでさえそうかもしれません。
生まれつきの人間は100%闇だというけど、救われる前の私はそこまでひどくなかった。
自分から神を求めて教会に来たんだ、という人もいるかもしれません。
しかしもし私たちが考える罪や暗やみがその程度だとしたら、救いの恵みもその程度でしかない、ということです。
イエスさまの十字架は、私たちを完全に救い出しました。
かつての私たちが100%真っ暗闇の生き物であったからこそ、神ご自身であるイエスが十字架にかからなければなりませんでした。
かつての私たちが、自分で自分を変えることのできない、100%罪の固まりであったからこそ、父なる神は、ご自分の一人子であるイエスを十字架につけて身代わりにする、という方法でしか、私たちを救う道はありませんでした。
自分が暗やみそのものであったと認めるとき、むしろ私たちの中には決して尽きることのない感謝が生まれてきます。
そんな私たちを決して見捨てようとしなかった、神の愛が心の中に広がっていきます。
この神の前では、私たちは長所を伸ばすとか、可能性だとか、誰かに必要とされているとか、そういう耳に聞こえのよい言葉にすがる必要がなくなります。
私は100%罪人である、誰も私を必要としていなくても、そして何も私は与えることができなくても、それでも神は私を愛しておられる。
この事実は決して変わりません。
神は私たちを必要としているから愛しているのではありません。
私たちが善き存在であるから愛しているのではありません。
頭の先からつま先まで汚れで満ちていたとしても、神は私たちひとり一人を愛しておられます。
だからこそ、イエス・キリストを私たちの身代わりとして、十字架にかけられたのです。
求道者として教会に通っていた頃の私は、自称99点の人間でした。
口では私なんかと言っていても、心の中では自分はよくやっていると自分を慰めて、なんとなく洗礼を受けた人間でした。
しかし自称99点なので、神さまへの感謝は1点分の枠しかありません。
礼拝のお祈りで感謝を口にしても、それは口先だけであり、自分が救われたのはそのうちどでかいことをやってのけるために神に選ばれたのだなどと考えていました。
しかし教会生活から離れた約二年間の最後に、神は私を0点の人間なのだと気づかせてくださいました。
そこに至るまでは、自分に絶望するという苦しい経験がありましたが、自分に絶望したときに、初めて神は私を離さないのだとわかりました。
今でも私は0点です。
教団の上の人からはもっと教会を成長させろとか洗礼者出せとかいろいろ言われているような気がするのですが、もともと0点だしなーとか思いながら、自分にできることを精一杯やるのみです。
しかし0点というのは、素晴らしいのです。
神さまへの感謝の枠が100点分まるまるあります。
私が地上に残せるものはやがてすべて消え失せたとしても、約束されている永遠のいのちは決して消えることはありません。
私たちを罪から完全に救うために死なれたイエス・キリスト。
このお方が私たちに与えられていることが、私たちの信仰の出発点であり、ゴールでもあります。
自分自身は0点だとしても、100点に足りない部分は、すべて神が満たしてくださいます。
ただ神が私たちひとり一人を愛し、用いてくださることを心から感謝して、歩んでいきましょう。