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みなさん、おはようございます。
まずは少し肩の力を抜いて、大きく深呼吸をしてみましょう。
私たちは毎日、家族のため、生活のために、息をつく暇もなく一生懸命に走っています。
しかし、こうして静かに礼拝の席に座り、ふと立ち止まったとき、神様の恵みを信じているはずなのに、日々の忙しさの中でいつの間にか信仰の喜びが遠くに感じられたり、心が少しカサカサと乾いているように感じることはないでしょうか。
礼拝に通い、祈っている。
それなのに、終わりの見えない生活の重圧や、思い通りにいかない子育ての葛藤、教会の将来への漠然とした不安が押し寄せてきます。
恵みの中にいると分かっていても心から喜べず、そんな自分を『神様の愛に応えられていないのではないか』とひそかに責め、もどかしさを抱えている方は少なくないと思います。
今日開かれたヨハネ福音書21章のペテロも、まさにそのような状態にありました。
イエス様の一番弟子であり、すでに復活の主に出会い、大漁の奇跡まで体験していた彼でさえ、その心は深い徒労感と自己嫌悪で覆われ、ひどく乾ききっていたのです。
今日は、このガリラヤ湖畔で、主がペテロのその心にどのように触れ、癒やしてくださったのか、ご一緒に味わっていきたいと思います。
岸辺で用意された朝食の席。
他の弟子たちも言葉少なではありましたが、奇跡の大漁を通して主の現臨に触れ、安堵と喜びに包まれていたはずです。
しかし、ペテロの心の内側はどうだったでしょうか。
彼の心には、他の弟子たちとは違う、分厚く冷たい雲が立ち込めていました。
大祭司の庭で、冷える夜に焚き火にあたりながら、「あんな人は知らない」と三度も主を呪って裏切ってしまった記憶。
一番弟子だと自負し、「命を捨てても」と豪語していた自分の惨めな姿。
どんなに魚がたくさん捕れても、どんなに主が優しく食事を振る舞ってくださっても、ペテロの心は「自分には、もうこの方のそばにいる資格はない」という激しい自己嫌悪に苛まれていたことでしょう。
パチパチとはぜる炭火の音と匂い。
主が用意してくださった温かい炭火は、ペテロにとって、あの凍えるような裏切りの夜をフラッシュバックさせる、息が詰まるようなものだったかもしれません。
過去の失敗に縛られ、自分を赦すことができず、うつむいたままパンを口に運ぶペテロ。
イエス様は、その痛みに満ちたペテロの魂の奥底に、静かに、しかし真っ直ぐにメスを入れられます。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。
決定的な対話がここから始まります。
沈黙を破り、イエス様はペテロに「わたしを愛しているか」と三度問われました。
最初の二回、主は「いかなる時も、無条件に、完全にわたしを愛し抜くことができるか」と問われました。
しかしペテロは、「主よ、あなたがご存じです。
私はあなたを親しい友として慕っています」と絞り出すように答えるしかありませんでした。
かつて「命を捨てても従います」と豪語して裏切ってしまった彼は、自分の愛がいかに脆く、不完全であるかを痛いほど知っていたからです。
もう二度と、立派な言葉で背伸びをすることはできなかったのです。
すると三度目、イエス様は問いかけの言葉を変えられました。
「ペテロよ、では、お前のその等身大の、不完全な愛で、わたしを慕ってくれているか」。
なんとイエス様の方から、ペテロの不完全な愛をそのまま受け入れ、彼のいる場所にまで優しく降りてきてくださったのです。
「立派な愛でなくてもいい。そのありのままの思いでいいのだよ」と。
そして主は、その痛んだ心を丸ごと抱きしめるように、「わたしの羊を飼いなさい」と最も大切な群れを委ねられました。
自分の無力さを深く知る者こそが、他者の痛みや迷いに寄り添うことができるからです。
主は私たちの完璧な強さではなく、葛藤の中で「それでも主を愛したい」と願う、その小さな思いを用いてくださるのです。
主はペテロに、「心の傷を完全に癒やし、立派な信仰者に戻ってから羊を飼いなさい」とは言われませんでした。
激しい自己嫌悪を抱えた、その「傷ついた心のままで」群れを委ねられたのです。
傷ついた者が他者に寄り添うとは、一体どのようなことでしょうか。
極限の状況の中で、そのように傷ついたまま小さな命に寄り添い抜いた一人の人がいます。
第二次世界大戦下のポーランドで孤児院の院長を務めていた、ヤヌシュ・コルチャックという人物です。
ナチスによって子どもたち全員が絶滅収容所へ送られることが決まった時、世界的に有名だった彼には、一人だけ助かる亡命の道が用意されていました。
しかし彼はそれを断り、一番幼い子を抱きかかえ、子どもたちと共に死の列車に乗り込みました。
彼は完璧な力で子どもたちを救い出すことはできませんでした。
彼自身も絶望の淵で傷ついていたはずです。
しかし、傷ついたままで徹底的に「共にいる」ことによって、子どもたちの魂を守り抜いたのです。
私たちも、親として、教会の仲間として、相手の問題を完璧に解決することはできません。
時には余裕がなくて家族に優しくできなかったと自分を責めたり、無力さに苦しみながら、それでも誰かに寄り添おうとします。
しかし、それでいいのです。
私たちができる最も尊い愛し方は、自分の傷を隠さず、傷ついた心のままで、目の前の命にどんな時も寄り添い続けることではないでしょうか。
ペテロは最後に、他の弟子(ヨハネ)の将来が気になり、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と尋ねました。
するとイエス様は、「わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。
あなたは、わたしに従いなさい」と答えられました。
私たちはしばしば、他人と自分を比べたり、まだ見ぬ未来を案じて立ち止まってしまいます。
自分の心にぽっかり空いた穴に目を向け、「こんな傷だらけの私で、最後まで通い続けることができるだろうか」「この教会の将来はどうなるのだろう」と不安の波が押し寄せます。
しかし、未来は完全に主の御手の中にあります。
主が私たちに求めておられるのは、立派な信仰者を無理に演じることではありません。
「その傷ついた心のままで、今日、いま、ここで、私に従いなさい」ということです。
複雑な現代社会の中で、日々の生活の葛藤や懸念は尽きないかもしれません。
しかし、主は今日も私たちのために恵みの炭火をおこし、温かく迎えてくださっています。
「あなたは、わたしを愛しているか」。
その声に「はい、主よ。傷ついた心のままですが、あなたを愛しています」と答えながら、今日与えられた目の前の小さな命、そして神様が関わらせてくださるすべての人を愛し、祈りつつ、新しく用意された今日という一歩を踏み出していきましょう。
主の豊かな平安がこれからの歩みと共にありますように。