恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

主日第二礼拝のプレミア公開

放送時間 11/9(日)午前10:30~11:30

<当日の讃美歌・聖書箇所>
招きのことば 「マタイの福音書」6章31-34節
開会の賛美 新聖歌2「たたえよ救い主イエスを」
説教箇所 「エズラ記」3:8-13
説教題 「神を第一にする人生」近 伸之牧師
応答の賛美 新聖歌230「十字架のもとぞ」
頌栄の賛美 新聖歌61「御恵みあふるる」

ネット環境の不備により、事前録画による公開とさせていただいております。


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週報の画像は当日までに更新します

 

ステンドグラスの図案をAIで作ってみた

新会堂の壁面にステンドグラスを設ける方向で話し合いを進めています。

現在、豊栄は、新潟(白山)と新発田を繋ぐJR白新線が通っていますが、その前(明治~昭和初期)は、新井郷川を豊栄から新潟まで繋ぐ、蒸気船が走っていました。

この新会堂の場所のすぐそばが船着き場だったそうです。

当初「葛塚蒸気」と呼ばれましたが明治35年に安進社に買収され「安進丸」と名付けられたらしい

豊栄のソウルフード、菜菓亭さんの『河川蒸気』。ネット販売もしています https://saikatei.net/

そんなわけで、新会堂に設置するステンドグラスに、この蒸気船のモチーフを取り入れる案が進められています。

業者の方にお願いして、図案も少しずつ固まっているのですが、アイディアの一助のため、Windows10と11についてくるCopilot無料版を使って、「川を遡る蒸気船に乗っているイエス」という図案を作ってみます。

長いステップになりますので、ここから先は「続きを読む」をクリックしてください。

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「十字架の先にある家へ」(マルコ8:22-26)

真ん中の再生ボタンを押さず、左下の「見る▶YouTube」を押すと聖書朗読およびメッセージの開始タイミングに直接ジャンプできます

ここをクリックすると説教原稿が出てきます

 みなさん、おはようございます。
今日は11月の最初の日曜日ですので、イエス・キリストの十字架の贖いを文字通りかみしめながら、パンとぶどう汁をいただきました。
言うまでもなくパンはイエスさまの肉、ぶどう汁はイエスさまが流された血を表しています。
大学生の頃に聞いた、ある牧師の説教の中に、今も忘れられないフレーズがあったことを思い出します。
その先生は、あろうことか、「イエス・キリストは三流の救い主だ」と言ったのです。
貧しい者たちのために汗を流し、悲しめる者のために涙を流し、あらゆる罪人のために血を流した、と。
その意味では、私たちが先ほどいただいたぶどう汁は、イエスさまの血だけではなく、汗も涙も含んでいます。
ですからちょっとしょっぱいと感じた人もいるかもしれません。

 二千年のあいだ、教会はこの聖餐式を守り続けてきました。
数年前のコロナウイルスの世界的流行のときには、どうしても中断しなければならないことがありましたが、いまはこうしてまた聖餐を守ることができています。
今日もまた、この聖餐礼拝を通して、神さまが私たちのために死なれたという恵みを感謝していきたいと思います。

 さて先週の聖書箇所の中で、イエスは弟子たちにこう問いかけておられました。
「まだわからないのですか?悟らないのですか?心が固く閉じているのですか?目がありながら見えず、耳がありながら聞こえないのですか?」これは、弟子たちがイエスの奇跡を目の前で見ていながらも、その意味を理解できていなかったことに対する叱責です。
しかし叱ってはいても、そこには深い愛と期待を込めて、彼らが真理に目を開いてほしいと願っておられました。
そして今日の聖書箇所に登場する盲人のいやしは、弟子たちが少しずつ霊的に目が開かれていくことの予告編とも言えます。

 この盲人がいやされる記録は、イエスさまが今までいやした人々のパターンから少し外れています。
一瞬で、あるいは即座に、いやされません。
イエス様がその手を彼の目に触れる。すると少しだけぼんやりと見えるようになる。
そこでもう一度イエス様が手を触れる。
するとだんだんと、この盲人の視界ははっきりしてきて、やがて完全に見えるようになる。
一瞬ではなく、だんだんと見えるようになっていく。
それは、じつは弟子たちの信仰の姿でもありました。
彼らはまだぼんやりとしか見えません。
しかしこの盲人が、見つめ続けることで視界がはっきりしていったように、弟子たちもまたイエスを見つめ続けることで、自分たちが弟子である意味をはっきりと見いだしていったのです。

 あるクリスチャン青年の話をします。
彼は長い間、性的誘惑にあらがえない自分の心の弱さに苦しみ続けていました。
その中で教会に導かれて、洗礼を受けたのですが、しかしクリスチャンになってからも、誘惑に負けてしまうことが多くあり、「自分は本当に救われたのだろうか」と悩み続けていました。
聖書を読んでも、祈っても、心が満たされない。
そんな彼が、ある日、教会の奉仕で特別養護老人ホームを訪問しました。
寝たきりの女性が彼の手を握りながらこう言いました。
「あなたが来てくれて、神様が私を忘れていないと感じました」。
その言葉に、彼の心が震えました。
こんな自分でも、この方を励ますために用いられたのだ、ということを確信しました。

 この青年のように、自分の成長が遅いと思っても、自分を責める必要はありません。
信仰はすぐに完成するものではありません。
ぼんやりとした視界が、少しずつはっきりしていくように、時間をかけて育っていくものなのです。

 もう少し、聖書を細かく見ていきましょう。
イエスがこの盲人の目に触れると、彼は「人が木のように歩いている」と言いました。
これは何を表しているのでしょうか。
彼の目に映った世界は、人の温かい体温が感じられる世界、血の通った世界ではありませんでした。
彼の視界には、確かに人が歩いていました。
しかしそこに表情はありません。人のふっくらとした体も見えません。
それは木のようです。
顔もなく、体温もなく、言葉もなく、黒い棒がただ歩いているような世界でした。
しかしじつはそれが、信仰者にだけ見える、この世界と、そこに生きる人々の真の姿です。
人々は確かにこの世界を歩き回っています。
しかし人としてではなく、木のように。やがては朽ち果て、簡単に折れてしまう木のように。
血も肉も通っていない、骸骨よりももっともろい姿で。
目が開かれた盲人が見た世界、それは顔のない木人間たちが歩き回る世界でした。
木人間たちは、夢と楽しみを求めて歩き回ります。
しかし彼らは朽ち果てるもののために歩き回り、やがては自分自身が朽ち果てます。

 この人がじっと見ていると、やがて木人間の姿は普通の人間のようになり、はっきりと見えるようになりました。
しかしその後の26節も不思議な言葉です。
イエスは彼を家に帰し、「村には入っていかないように」と命じたとあります。
普通、家は村の中にあります。
村の中に入ることなく、家に帰ることそのものが無理じゃないかと思います。
しかしここでは、そのような文字通りの意味にではなく、霊的な適用として考えるべきでしょう。
「村」とは自分が罪人であることに気づかない人々が生きる世界、そして「家」とは、罪人であることに気づき、救いを求める者が帰るべきところです。
私たちはこの世で生きている以上、「村」にも「家」にも身を置かなければなりません。
しかし心を置くべきところは、村ではなく、「家」、私たちが帰るべき場所にあるのです。

 聖書は、すべての人が罪を持って生まれてくると教えています。
そしてその罪は、自分の力ではどうすることもできません。
しかしイエス・キリストが十字架で命を捧げてくださったことで、私たちはその罪から解放される道が開かれました。
しかし勘違いしてはいけません。
救いとは、この世で成功するための道具ではないのです。
むしろこの世がやがて必ず朽ち果てていく世界であることを、救いははっきりと示します。
私たちが向かうべき先は、その朽ち果てる世の先にある、永遠の御国です。
それが、入ってはならない「村」と、帰って行くべき場所である「家」が表しているものです。

 ある青年は、「自分は世の中に必要とされていない人間だ」というのが口癖でした。
そんな彼が、たまたま誘われた教会の礼拝説教の中で、「イエスはあなたのために命をささげてくださった」と聞いたときに涙が止まらなかったと言います。
しかし家に帰って、家族にその話をしても、そんな話で泣くなんてバカじゃないの、と言われただけだったそうです。
しかし彼はその後も教会に通うようになり、やがてクリスチャンになり、牧師になりました。

 聖書は、この世の価値観や、むなしい世界観しか知らない人々にとっては、まさに愚かなことばに聞こえるものです。
しかしそのような人々の中にも、神は彼のようにみことばによって変えられ、救われる人を備えておられます。
私たちひとり一人が、そうなのです。
皆さん、イエス・キリストは、あなたのために十字架にかかりました。
あなたがどんな過去を持っていても、どんな疑問を抱えていても、イエスはあなたを招いています。
信じる者には、新しい人生と、永遠の「家」への道が用意されているのです。
これから始まる一週間、一ヶ月も、私たちは目を上げて、神の家を目指して歩んでいきましょう。

 

「見えないものに信頼する心」(マルコ8:11-21)

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 みなさん、おはようございます。
今日はマルコ福音書の中から、神さまが私たちに与えてくださった恵みについて、振り返っていきたいと思います。

 二ヶ月くらい前でしょうか、私が神学校時代に二年間通っていた、千葉のある教会の婦人役員さんからお手紙が届きました。
約30年かけて、一億円近い会堂返済を完了しました、感謝しますという内容でした。
一時は返済が滞ってしまい、売却を検討したこともあったとも書いてありました。
しかしその役員さんは、当時から私たち神学生に、神さまが始めてくださったことだから、とよく仰っていました。
そして手紙の最後には、「次は先生の番ですね」と書かれてありました。
私たちは30年とまでは行きませんが、しかしこれから10年間は返済が続きます。
でも私たちは決して不安に思う必要はありません。
私たちの目には見えなくても、確かに神の計画が始まっているのです。

 しかし多くの人々は、「確かな証拠」や「目に見える結果」を求めます。
そして保証がないと不安になったり、証拠がなければ人の話を信じられない、ということもあります。
ある高校生が、某一流と呼ばれる国立大学を目指していました。
しかしなかなか勉強の成果が現れず、「神さま、あなたが本当にいるなら、合格できるってサインをください」と祈ったそうです。
しかしサインはなく、不安ばかりが募っていきました。
その不安を紛らわせるために、真面目な彼はいつも部屋の掃除をしていたそうです。
ゲームやマンガだと、逃げている罪悪感があるのですが、部屋の掃除だと、時間を有効に使った、という達成感が生まれるからでした。
しかし勉強しないで掃除ばかりしていたので、大学は落ちてしまったそうです。
友人からは「片付け名人」と呼ばれるようになったので悪いことばかりではなかったようですが、今日の聖書箇所では、パリサイ人たちがイエスに「天からのしるし」を求めています。

 彼らは、イエスが本当に神から遣わされた者かどうかを確かめるための「証拠」を求めました。
しかし、イエスはその願いに応えず、「この時代には、どんなしるしも与えられません」と言って、彼らのもとを去りました。
イエスは、彼らの心の中を見抜いていたのです。
彼らは信じるためにしるしを求めたのではなく、イエスを試すために、疑いの心で求めていたからです。

 パリサイ人たちがやったことは、子どもがその友だちに、「本当に友だちなら、これをしてみせて」と言って、相手を試すようなものです。
信頼がないところに、真の関係は生まれません。
イエスは、神との関係は「信頼」によって築かれるものであり、目に見える奇跡だけに頼る信仰は、根が浅いことを知っておられました。

 次に、弟子たちとのやりとりが続きます。
彼らは舟の中でパンが一つしかないことに気づき、不安になります。
するとイエスは、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」と言われました。
この「パン種」という言葉は、パンをふくらませる酵母のことですが、ここでは「心の中に広がる考え方」や「影響力」のたとえです。
イエスは、パリサイ人やヘロデのように、神を信じず、自分の力や地位に頼る心に注意しなさいと教えたのです。
しかし弟子たちはその言葉の意味を理解できず、「パンが足りないからそんなことを言ったのだ」と勘違いしてしまいます。
イエスは彼らに、「まだ悟らないのか」と問いかけ、過去に五千人、四千人にパンを分け与えた奇跡を思い出させます。

 この場面を読んで、ある教会の青年の話を思い出しました。
彼は、あるとき仕事を失い、生活が苦しくなりました。
けれども、ふと過去を振り返ると、困ったときに誰かが助けてくれたこと、必要なものが与えられてきたことを思い出しました。
「ああ、神さまはいつもそばにいてくださったんだ」と気づいたとき、彼の心に平安が戻ったそうです。
イエスは、弟子たちに「思い出しなさい」と語りかけています。
神さまがどれほどの恵みを与えてくださったかを、忘れてはいけないのです。

 この箇所は、現代を生きる私たちにも深い問いを投げかけています。
私たちは、神様や人生の導きに対して、「もっとはっきりしたサインが欲しい」「確かな結果が見えないと信じられない」と思うことがあります。
しかし、イエスは言います。
「あなたは、すでに多くの恵みを受けてきたではないか。
なぜそれを忘れてしまうのか」と。

 ある主婦の方が、こんな話をしてくれました。
子どもが病気になり、毎日不安でたまらなかったとき、「神さま、どうしてこんなことが起こるの?」と祈ったそうです。
でも、近所の人が食事を届けてくれたり、教会の人が祈ってくれたりして、「ああ、神さまはちゃんと働いておられる」と感じたといいます。

 信仰とは、目に見えるものに頼ることではなく、見えないものに信頼することです。
パンが一つしかなくても、神が共におられるならば、必要は満たされる。
過去に与えられた恵みを思い出し、今も神が働いておられることを信じる。
それが、信仰の歩みです。

 皆さんの人生にも、きっと「しるし」はすでに与えられているはずです。
困難の中で助けられた経験、思いがけない導き、誰かの優しさ。
それらはすべて、神が共におられる証です。

 あるお年寄りの方が、こんなことを話してくれました。
「若いころは、神さまがいるのかどうか、よくわからなかった。
でも、人生を振り返ると、あのときも、このときも、神さまが守ってくださっていたとしか思えないことがたくさんあるんです。」
 どうか、目に見えるものにとらわれすぎず、心の目と耳を開いて、神の語りかけに気づいてください。
そして、今ある恵みに感謝し、これからも信頼して歩んでいきましょう。
イエスさまは、弟子たちに「まだ悟らないのか」と問いかけました。
その言葉は、私たちにも向けられています。
神さまの愛と導きは、いつも私たちのそばにあります。
だからこそ、見えないものに信頼する心を持って、日々を歩んでいきましょう。

 

「神の祝福とは何か」(創世27:1-19)

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 みなさん、おはようございます。
今日の礼拝説教では、「祝福を受け取るためには」というタイトルで、旧約聖書から語らせていただきます。

 本日の聖書箇所は、神に選ばれたはずのイサクとリベカの家庭、しかしその悲しくもこっけいな姿が描かれています。
神の祝福を受け継ぐために選ばれた家族なのに、そこには神の言葉も、神への信頼も見られません。
登場するのは、祝福を手に入れるために欲望や策略をむき出しにして走り回る人々の姿です。

 イサクはエサウだけを、リベカはヤコブだけを愛しました。
その偏った愛は、子どもたちにそのまま受け継がれ、エサウは父の俗っぽさを、ヤコブは母の狡猾さを真似るようになりました。
夫婦には悔い改めの機会が何度も与えられていたのに、彼らは自分たちの歪んだ愛を正そうとしませんでした。

 このような家庭の姿は、決して昔話ではありません。
現代の私たちの家庭にも、同じような歪みが潜んでいるのではないでしょうか。
愛が偏ると、傷や憎しみが生まれます。
神の祝福を受け継ぐためには、まず家庭が神に向かって整えられていなければならないのです。

 ある教会で礼拝説教をしたとき、礼拝の後でそこの信徒の方がこう話してくれました。
「うちの父は、兄ばかりを褒めて、私にはいつも厳しい人でした。
兄が失敗しても笑って許すのに、私が同じことをすると怒鳴られたものです。
大人になっても、その傷は消えません」。
この方は、教会に通う中で少しずつ癒されていったそうですが、家庭の中で受けた偏った愛の痛みは、長く心に残るものです。

 イサクとリベカの家庭も、まさにそのような偏った愛の中にありました。
神の祝福を受け継ぐべき家庭が、神の愛ではなく人間の思いによって動いていたのです。
では、なぜイサクとリベカの家庭はここまで歪んでしまったのでしょうか。
かつては優しさと信仰に満ちていた二人が、なぜここまで変わってしまったのでしょうか。
それは、彼らが神の祝福を軽んじたからです。その一言に尽きます。

 今日の聖書箇所には、「祝福」という言葉が何度も出てきます。
まずイサクは長男であるエサウにこう言います。
「獲物を捕ってきて、私においしい料理を食べさせてくれないか。わたしがおまえを祝福するために」。
そしてそれを陰で聞いていたリベカは、弟息子であるヤコブに、兄に扮装して、代わりにその祝福を受け取りなさい、とそそのかします。
今日の聖書箇所は、全体がすごく長いので、聖書朗読はその前半部分だけですが、後半にも「祝福」という言葉が何度も登場します。
ヤコブはエサウに扮して祝福を受け取り、帰ってきてそれを知ったエサウは祝福を奪われたことに激怒して、弟を殺そうとします。
もともとはこの出来事の前にエサウはヤコブに祝福を一杯のスープで売り渡してしまっており、家族全員がそれを知っているのですが、彼らはここで一家総出で二つに分かれて、祝福争奪戦を繰り広げるのです。

 イサクやエサウにとって祝福は、食事や獲物と引き換えに与えたり、受け取ったりできるもの、またリベカやヤコブも、策略を用いて祝福を手に入れようとしました。
ヤコブにエサウの服を着せ、ヤギの毛皮で変装させる。
しかし神の祝福は、そんな小賢しい手段で得られるものではないのです。

 神の祝福とは一体何でしょうか。
ここに出てくる四人の家族のように、祝福をまるでバレーボールのようにやりとりするのは論外ですが、私たちクリスチャンの、祝福に対する考えも似たようなものに思います。

 先々週のことですが、同盟教団の研修会が県外で行われたので、参加してきました。
今から30年ほど前、私が青年の信徒であった頃、同盟教団の全国集会にいくと、えらい先生が「同盟教団ほど祝福された教団はない」ということを言っていました。
どの教会でも、毎年一人は洗礼者が起こされていました。
どんなに小さな教会でも、教会学校には子どもたちがたくさん集まっていました。
同盟教団が成長している姿を見て、単立の教会や、歴史はあるけど衰退していた他の教団が加入してきたり、毎年着実に、教団は大所帯になっていきました。
しかし約10年ほど前から、同盟教団の信徒や洗礼者の数は、減少に転じています。
絶頂期を越えて、下り坂に来ています。
今回の研修会では、そのような現状を認識し、これからの宣教を考えようというのがテーマでした。

 しかし残念だったことは、いまは危機の時代だというデータはたくさん報告されても、ではみことばによってどう戦っていくのかということはほとんど語られなかったことです。
教会の数が増えるのが祝福、洗礼者が与えられていくのが祝福、しかしそういった目に見える祝福ばかりに縛られていた私たちは、教師も信徒も悔い改めるべきではないのかということを思います。

 本来、神の祝福とは、人や財産が増えるということではなく、神ご自身が祝福であると聖書は語っています。
しかし神を見るためには、砕かれた心と、みことばを求める思いが不可欠です。
一人一人の信徒が、自らの心を振り返り、みことばを求めていくこと、それがいま、神からのチャレンジとして与えられているのだろうと思います。

 この創世記27章には、神の言葉が一度も登場しません。
人々は「主」という言葉を口にしますが、それは自分の都合のために使っているだけです。
神の祝福を求めながら、神ご自身を求めようとしない。
これは、現代の教会や私たち自身への警告でもあります。

 ある牧師が語っていました。
「教会の奉仕に熱心な方がいました。
でも、ある時その方が『私がこんなに頑張っているのに、誰も感謝してくれない』と怒って教会を離れてしまったのです」。
その方は、神のために奉仕しているつもりでしたが、実は人の評価を求めていたのかもしれません。
神の祝福を求めるとは、神ご自身を求めることです。
人の目ではなく、神の目に喜ばれることを願う心が必要なのです。

 神の祝福とは、神の臨在そのものです。
イサクやエサウのように食べ物と引き換えにできるものではありません。
リベカやヤコブのように人間的な策略によって手に入れてよいものではありません。
神を恐れ、神を愛し、神の前に自分の罪深さを嘆き、全身を投げ出して、自分の罪を悔い改める者、そのような者の中に神は生きておられ、祝福そのものとなってくださいます。

 私たちは、神の祝福を受けるために、まず神を求める者となりましょう。
神の言葉に耳を傾け、神の導きに従い、神の愛に生きる者となりましょう。
神の祝福は、神を愛する者に確かに与えられます。
そしてその祝福は、私たちの家庭を、教会を、社会を、静かに、しかし確かに変えていくのです。
神の祝福を求めるとは、神の心に近づくことです。
神の愛に生きることです。神の真実に立つことです。
その歩みを、今日からまた新たに始めていきましょう。