恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

主日第二礼拝のプレミア公開

放送時間 5/10(日)午前10:30~11:30

<当日の讃美歌・聖書箇所>
招きのことば 「コリント人への手紙 第二」6章1-10節
開会の賛美 新聖歌21「輝く日を仰ぐとき」
聖書「列王記 第一」8:22-30
説教「見えない礎(いし)を磨く喜び」近 伸之牧師
応答の賛美 新聖歌98「緑も深き」
頌栄の賛美 新聖歌61「御恵みあふるる」

ネット環境の不備により、事前録画による公開とさせていただいております。


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週報の画像は当日までに更新します

 

「RESURGAM(レスルガム)~私たちは再び立ち上がる」(列王第一8:12-21)

真ん中の再生ボタンを押さず、右下の「見る▶YouTube」を押すと聖書朗読およびメッセージの開始タイミングに直接ジャンプできます

ここをクリックすると説教原稿が出てきます

 みなさん、おはようございます。
今日、私たちはこの古家での最後の礼拝を迎えています。
思い返せば、今から4年半前、臨時総会を開いてこの250坪の土地を取得することが満場一致で議決されたとき、私たちは大きな希望に胸を膨らませました。
長年の悲願であった広い駐車場を備え、次世代へとつながる新しい教会形成がここから始まると確信したのです。
しかし、そのわずか半年後、長年共に歩んできた数名の教会員が突然他教会へ移るという、非常に辛く悲しい出来事があり、教会は大きく動揺しました。
さらにその年の暮れには、元のかやまの教会堂周辺で日曜日のみお借りできていた、医院や薬局の駐車場が次々と借りられなくなるという事態に直面し、まるで荒れ野に立たされたような不安を覚えました。

 しかし、神様は道を備えておられました。
この土地に残されていた、この古家を仮の会堂として用いる道が開かれたのです。
冬場はお湯も出ない厳しい環境でした。
しかし、この4年という月日、私たちはここで共に身を寄せ合うようにして礼拝を守り、新しい会堂の完成を待ち望んできました。
この待ち望む時間は、決して無駄ではなかったと思います。
そして今日、私たちが開く本日の聖書箇所、列王記上の第8章には、長い年月と多くの苦難を経て完成したソロモンの神殿奉献の場面が記されています。
この御言葉を通して、神様の真実を見つめてまいりましょう。

 ソロモンの神殿が完成し、契約の箱が運び込まれると、神殿は「濃い雲」に満たされました。
それは、神ご自身の臨在を示すしるしでした。
その荘厳な光景の中で、ソロモン王は民に向かって振り返り、祝福の言葉を語り始めます。
ここでソロモンが語ったのは、自分自身の偉大な業績ではなく、父ダビデから続く「神の真実の歴史」でした。

 父ダビデは、神様のために立派な神殿を建てることを心に強く願い、その準備を進めていました。
しかし、神様は預言者ナタンを通して「あなたが建てるのではない。
あなたの息子が建てるのだ」と告げられました。
ダビデにとって、それは自分の代では夢が叶わないという、ある種の挫折であったかもしれません。
当時の社会において、王が神殿を建てることは最大の誉れだったからです。
しかし神様は、目に見える建物以上に、ダビデが『神のために』と心に抱いたその熱い思いそのものを、『良いことである』と大いに喜んでくださったのです。

 神様の計画は、人間の思い描くタイムラインや方法とは異なることがあります。
しかし、神様は決して約束を忘れることはありません。
ダビデの挫折と忍耐の向こう側に、神様はソロモンという次世代を通して、壮大な救いの歴史と御計画を確実に成し遂げられたのです。

 ソロモンは15節でこう語っています。
「主は御口をもって私の父ダビデに語り、御手をもってこれを成し遂げて、こう言われた」。
ここに、忘れてはいけない深い真理があります。
人間の歴史を本当に動かしているのは、私たちの力や計画ではなく、神様の「御口が語った約束」であり、神様の「御手が成し遂げるみわざ」だということです。

 この真理は、私たちの教会の50年以上の歩みそのものでもあります。
この町に豊栄キリスト教会が誕生して半世紀、この場所で産声を上げ、洗礼を受けた方はじつに100名近くに上ります。
しかし、そのうち半数近い方々が、さまざまな理由で教会から離れていかれました。
そして今、私たちは子どもたちも含めて約30名で礼拝を守っています。
時に私たちは、『なぜ思い通りに進まないのか』『私たちの祈りや努力が足りなかったのだろうか』と、自らを責め、深く落胆することもあったかもしれません。
先ほど触れた教会員の離脱といった、大きな出来事だけではなく、なかなか求道者が訪れない、一度来ても二度目が続かない、受洗者が数年間起こされない、といった、じわじわとお腹が痛くなってくるような事態もそうでした。
しかし、ダビデの計画が神様のより大きな計画の中に組み込まれていたように、私たちの痛みの経験もまた、神様の「御手」の中にあるのです。
人間の目には後退に見える出来事さえも、神様はご自身の教会を真に堅固なものとするための準備期間として用いてくださいます。

 ここで、ひとつの歴史的なエピソードをご紹介したいと思います。17世紀、ロンドンを大火災が襲い、街の象徴であったセント・ポール大聖堂も焼け落ちてしまいました。
クリストファー・レンという名の一人の建築家がその焼け跡に立ち、再建のための測量を行っていた時のことです。
彼は瓦礫の山の中から、焼け焦げた古い墓石の破片をひとつ見つけました。
そこには、ラテン語で「RESURGAM(レスルガム)」――「私は再び立ち上がる」という言葉が刻まれていたのです。
レンはその言葉に深く打たれ、その石を新しい大聖堂の中心的な土台の一部として据えました。
灰の中から見出された希望の言葉が、新しい建物の礎となったのです。

 私たちの教会も同じです。
痛みを経験し、お湯も出ないこの古家での不自由な4年間を過ごしました。
これからの会堂の返済を考えれば、子育て中の方も、年金生活の方も、それぞれに不安を抱えておられるかもしれません。
しかし私たちはこの不自由な場所で、『神様が必ず備えてくださる』という信仰を培ってきました。
それこそが、私たちの心に据えられた『RESURGAM(再び立ち上がる)』という確かな礎石となったのではないでしょうか。
神様は、私たちの不安も弱さもすべてご存知の上で、今日という日を迎えるまで支え続けてくださったのです。

 ソロモンは20節で「主はお告げになった約束を果たされた」と高らかに宣言しています。
私たちが今日、この古家での最後の礼拝において心に刻むべきことは、まさにこの神の真実です。
人数が多いか少ないかが問題ではありません。
30名であっても、そこに賛美がささげられ、みことばが語られ、真実に神を礼拝する群れがいるならば、そこには必ず救いのみわざが起こされていきます。
このお湯の出なかった古家にも、神殿を覆ったあの「濃い雲」のように、神様の臨在が豊かに満ちていました。
ここは不自由な古家ではありましたが、決して単なる仮の宿ではありませんでした。
私たちが神様の真実に深く触れ、新しい歩みへ向けて『再び立ち上がる力』を養っていただいた、かけがえのない聖なる場所であったのです。

 来週から、いよいよ新しい会堂での礼拝が始まります。
そこには、これまでとは違う新しい景色が広がっていることでしょう。
お湯もちゃんと出ますし、開かない扉もありませんし、天井は雨漏りとは無縁です。
それでも私たちの前には、まだ見ぬ課題が出てくることでしょう。
しかし、ここまで私たちを導き、「御手をもって成し遂げて」くださった神様が、これからも共にいてくださいます。
4年間のときわ会堂、そして50年間のかやま会堂で経験した神様の助けを深く信頼しながら、新しい一歩を踏み出していきましょう。
主の豊かな祝福と平安が、お一人お一人の上に豊かにありますように。

 

「傷ついた心のままで」(ヨハネ21:15-22)

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 みなさん、おはようございます。
まずは少し肩の力を抜いて、大きく深呼吸をしてみましょう。
私たちは毎日、家族のため、生活のために、息をつく暇もなく一生懸命に走っています。
しかし、こうして静かに礼拝の席に座り、ふと立ち止まったとき、神様の恵みを信じているはずなのに、日々の忙しさの中でいつの間にか信仰の喜びが遠くに感じられたり、心が少しカサカサと乾いているように感じることはないでしょうか。

 礼拝に通い、祈っている。
それなのに、終わりの見えない生活の重圧や、思い通りにいかない子育ての葛藤、教会の将来への漠然とした不安が押し寄せてきます。
恵みの中にいると分かっていても心から喜べず、そんな自分を『神様の愛に応えられていないのではないか』とひそかに責め、もどかしさを抱えている方は少なくないと思います。

 今日開かれたヨハネ福音書21章のペテロも、まさにそのような状態にありました。
イエス様の一番弟子であり、すでに復活の主に出会い、大漁の奇跡まで体験していた彼でさえ、その心は深い徒労感と自己嫌悪で覆われ、ひどく乾ききっていたのです。
今日は、このガリラヤ湖畔で、主がペテロのその心にどのように触れ、癒やしてくださったのか、ご一緒に味わっていきたいと思います。

 岸辺で用意された朝食の席。
他の弟子たちも言葉少なではありましたが、奇跡の大漁を通して主の現臨に触れ、安堵と喜びに包まれていたはずです。
しかし、ペテロの心の内側はどうだったでしょうか。
彼の心には、他の弟子たちとは違う、分厚く冷たい雲が立ち込めていました。

 大祭司の庭で、冷える夜に焚き火にあたりながら、「あんな人は知らない」と三度も主を呪って裏切ってしまった記憶。
一番弟子だと自負し、「命を捨てても」と豪語していた自分の惨めな姿。
どんなに魚がたくさん捕れても、どんなに主が優しく食事を振る舞ってくださっても、ペテロの心は「自分には、もうこの方のそばにいる資格はない」という激しい自己嫌悪に苛まれていたことでしょう。

 パチパチとはぜる炭火の音と匂い。
主が用意してくださった温かい炭火は、ペテロにとって、あの凍えるような裏切りの夜をフラッシュバックさせる、息が詰まるようなものだったかもしれません。
過去の失敗に縛られ、自分を赦すことができず、うつむいたままパンを口に運ぶペテロ。
イエス様は、その痛みに満ちたペテロの魂の奥底に、静かに、しかし真っ直ぐにメスを入れられます。
「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。
決定的な対話がここから始まります。

 沈黙を破り、イエス様はペテロに「わたしを愛しているか」と三度問われました。
最初の二回、主は「いかなる時も、無条件に、完全にわたしを愛し抜くことができるか」と問われました。
しかしペテロは、「主よ、あなたがご存じです。
私はあなたを親しい友として慕っています」と絞り出すように答えるしかありませんでした。
かつて「命を捨てても従います」と豪語して裏切ってしまった彼は、自分の愛がいかに脆く、不完全であるかを痛いほど知っていたからです。
もう二度と、立派な言葉で背伸びをすることはできなかったのです。

 すると三度目、イエス様は問いかけの言葉を変えられました。
「ペテロよ、では、お前のその等身大の、不完全な愛で、わたしを慕ってくれているか」。
なんとイエス様の方から、ペテロの不完全な愛をそのまま受け入れ、彼のいる場所にまで優しく降りてきてくださったのです。
「立派な愛でなくてもいい。そのありのままの思いでいいのだよ」と。
そして主は、その痛んだ心を丸ごと抱きしめるように、「わたしの羊を飼いなさい」と最も大切な群れを委ねられました。
自分の無力さを深く知る者こそが、他者の痛みや迷いに寄り添うことができるからです。
主は私たちの完璧な強さではなく、葛藤の中で「それでも主を愛したい」と願う、その小さな思いを用いてくださるのです。

 主はペテロに、「心の傷を完全に癒やし、立派な信仰者に戻ってから羊を飼いなさい」とは言われませんでした。
激しい自己嫌悪を抱えた、その「傷ついた心のままで」群れを委ねられたのです。
傷ついた者が他者に寄り添うとは、一体どのようなことでしょうか。
極限の状況の中で、そのように傷ついたまま小さな命に寄り添い抜いた一人の人がいます。
第二次世界大戦下のポーランドで孤児院の院長を務めていた、ヤヌシュ・コルチャックという人物です。
ナチスによって子どもたち全員が絶滅収容所へ送られることが決まった時、世界的に有名だった彼には、一人だけ助かる亡命の道が用意されていました。
しかし彼はそれを断り、一番幼い子を抱きかかえ、子どもたちと共に死の列車に乗り込みました。
彼は完璧な力で子どもたちを救い出すことはできませんでした。
彼自身も絶望の淵で傷ついていたはずです。
しかし、傷ついたままで徹底的に「共にいる」ことによって、子どもたちの魂を守り抜いたのです。

 私たちも、親として、教会の仲間として、相手の問題を完璧に解決することはできません。
時には余裕がなくて家族に優しくできなかったと自分を責めたり、無力さに苦しみながら、それでも誰かに寄り添おうとします。
しかし、それでいいのです。
私たちができる最も尊い愛し方は、自分の傷を隠さず、傷ついた心のままで、目の前の命にどんな時も寄り添い続けることではないでしょうか。

 ペテロは最後に、他の弟子(ヨハネ)の将来が気になり、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と尋ねました。
するとイエス様は、「わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。
あなたは、わたしに従いなさい」と答えられました。
私たちはしばしば、他人と自分を比べたり、まだ見ぬ未来を案じて立ち止まってしまいます。
自分の心にぽっかり空いた穴に目を向け、「こんな傷だらけの私で、最後まで通い続けることができるだろうか」「この教会の将来はどうなるのだろう」と不安の波が押し寄せます。

 しかし、未来は完全に主の御手の中にあります。
主が私たちに求めておられるのは、立派な信仰者を無理に演じることではありません。
「その傷ついた心のままで、今日、いま、ここで、私に従いなさい」ということです。
複雑な現代社会の中で、日々の生活の葛藤や懸念は尽きないかもしれません。
しかし、主は今日も私たちのために恵みの炭火をおこし、温かく迎えてくださっています。
「あなたは、わたしを愛しているか」。
その声に「はい、主よ。傷ついた心のままですが、あなたを愛しています」と答えながら、今日与えられた目の前の小さな命、そして神様が関わらせてくださるすべての人を愛し、祈りつつ、新しく用意された今日という一歩を踏み出していきましょう。
主の豊かな平安がこれからの歩みと共にありますように。