恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

主日第二礼拝のプレミア公開

放送時間 2/15(日)午前10:30~11:30

<当日の讃美歌・聖書箇所>
招きのことば 「コリント人への手紙 第一」12章21-27節
開会の賛美 新聖歌3「天地の御神をば」
聖書「エペソ人への手紙」2:19-22
説教「六花豊栄(りっかほうえい)」近 伸之牧師
応答の賛美 新聖歌265「世人の咎のために」
頌栄の賛美 新聖歌62「天つみ民も」

ネット環境の不備により、事前録画による公開とさせていただいております。


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週報の画像は当日までに更新します

 

「荒野の旅路をイエスと共に」(ルカ4:1-13)

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 みなさん、おはようございます。
雪のない12月、雪降りすぎの1月と過ごしてきて、この2月はどんなひと月になるのかなと思いますが、まあ新潟らしい真冬の一ヶ月となるのでしょう。
ところがニュースを見ますと、日本海側以外では水不足になっているというわけです。
雪だらけの国と、水のない国、どちらがいいのかなと悩みますが、どちらにしてもあまりいいものではありません。
恵みに感謝して生きる、と口で言うのはたやすい、しかし心の底からそう感じられるかどうかは、簡単ではありません。

 今日、私たちが一緒に学ぶ聖書の言葉もまた、そのような厳しい場所から始まります。
主イエス・キリストが、洗礼を受けられた直後、聖霊によって導かれた場所。
そこは、私たちが想像するような平坦な砂漠ではありません。
切り立った岩肌が続き、昼は太陽が容赦なく照りつけ、夜になれば骨の髄まで凍えるような冷気が襲う、命を拒絶するような場所です。
風の音以外には何も聞こえない、圧倒的な沈黙と孤独の世界。
そのただ中に、主イエスはお一人で立っておられました。

 主はそこで四十日間、悪魔からの試みを受けられました。
「なぜ、神の子であるイエス様が、そのような苦しい場所に?」と思われるかもしれません。
しかし、主イエスがあえてその荒野に立たれたのは、まさに今、人生の寒さや渇きの中にいるあなたと出会うためだったのです。
主は、私たちの痛みを安全な場所から眺める方ではなく、私たちの歩む荒野のただ中にまで降りてきてくださる方です。
今日の御言葉を通して、凍えるような心に、主の温かい光が差し込むことを願っています。
私たちの人生の荒野は、神様の愛と出会うための場所でもあるのですから。

 聖書は「四十日の間、悪魔から誘惑を受けられた」と記しています。
四十日。それは決して短い期間ではありません。
かつてイスラエルの民が荒野を彷徨った四十年間、あるいは預言者エリヤが旅した四十日を思い起こさせます。
この期間、主イエスは何も食べず、極限の空腹の中にありました。
胃がキリキリと痛み、めまいがし、体力が限界に達したその時です。
悪魔は近づいてきました。ここで注目したいのは、悪魔のやり方です。
悪魔は、恐ろしい怪物の姿で襲いかかってきたのではありません。
もっと巧妙に、もっと親しげに、まるで「あなたのためを思っている」かのような顔をして、耳元でささやいたのです。
「もし、あなたが神の子なら……」。

 この「もし」という言葉には、毒が含まれています。
「本当に神はあなたを愛しているのか?」「今の苦しみは何の意味があるのか?」と、神様との信頼関係にひびを入れようとする、疑いのささやきです。
最初の誘惑で、悪魔は石をパンに変えよと言いました。
これは単なる食欲の話ではありません。
「目に見える結果を出せ」「自分の力で満たせ」「役に立つことだけが価値だ」というささやきです。
私たちもよく聞く声ではないでしょうか。
「成果を出さないお前には価値がない」と。
しかし、主は「人はパンだけで生きるものではない」と答えられました。
これは、「私の命は、何を食べたか、何を持ってるかで決まるのではない。
私を生かしているのは、私を愛し、『良し』と言ってくださる父なる神の言葉だ」という宣言です。
私たちの価値は、生産性や所有物にあるのではなく、神様に愛されているという事実にあります。

 二つ目の誘惑は、世界の権力と栄華でした。
悪魔は「私を拝めば、これをやろう」と言います。これは「近道」の誘惑です。
苦しみや十字架を避けて、手っ取り早く成功や賞賛を得ようとする心です。
しかし主は、神だけを礼拝すると答えられました。
真の満たしは、きらびやかな成功ではなく、神様との誠実な関係の中にしかないことをご存知だったからです。

 三つ目の誘惑は、神殿の頂から飛び降りることでした。
「神が守ってくれるはずだ」と、神様の愛を試すような行為です。
これは「奇跡を見せてくれたら信じてやる」「私の願い通りにしてくれたら愛されていると認める」という、条件付きの信仰への誘惑です。
しかし主は、試すことを拒絶されました。
なぜなら、主イエスは奇跡が起きようと起きまいと、父なる神の愛を絶対的に信頼しておられたからです。

 これらすべての誘惑に対して、主イエスが武器とされたのは、ご自分の超能力ではなく、誰でも口にできる「聖書の言葉」でした。
主は、私たちと同じ弱さの中に身を置きながら、神様の言葉への信頼、神様の愛への信頼という、ただ一本の命綱を決して離さなかったのです。
それは、「神の愛以外に、私を本当に満たすものはない」という真理を、身をもって示された瞬間でした。

 この荒野の誘惑は、二千年前の遠い出来事ではありません。
今、私たちの生活の真ん中で起きていることではないでしょうか。
現代という荒野で、私たちは常に「石をパンに変えろ」という圧力にさらされています。
「もっと稼がなければ」「もっと有能でなければ」「もっと良い親でなければ」。
無人島で生きていれば人と比較しなくても済むでしょう。
しかし私たちはいつも比較されます。そして悪魔はささやくのです。
「もし神があなたを愛しているなら、どうしてこんな目に遭うの?」と。
 そんな時、どうぞ思い出してください。
主イエスが、あなたより先にその荒野におられたことを。
主は、あなたのその空腹感、その孤独、その焦りを、痛いほどご存知です。
そして主は、あなたが石をパンに変えるような奇跡を起こせなくても、立派な功績を残せなくても、あなたを愛しておられます。

 「人はパンだけで生きるものではない」。
この言葉は、あなたへのラブレターです。
「あなたは、何ができるか(パン)で価値が決まるような安い存在ではない。
あなたは、神の口から出る愛の言葉によって生かされる、かけがえのない存在だ」と、主は語りかけておられるのです。
私たちが弱くて戦えない時、主が代わりに戦ってくださいました。
ですから、弱いままでいいのです。
ただ、「主よ、助けてください」と、その御言葉にしがみついてください。
主の勝利は、今、あなたのものです。

 今日の聖書箇所の最後には、「悪魔はあらゆる試みを終えると、しばらくの間、イエスを離れた」とあります。
「しばらくの間」とは、「次の時が来るまで」とも訳せます。
私たちの人生にも、次の「時」が来るかもしれません。
一度は信仰によって問題を乗り越えても、再び、心細い風が吹き、不安が押し寄せる日があるでしょう。
しかし、恐れることはありません。
なぜなら、荒野で悪魔に勝利された主イエスが、あなたの内におられるからです。
主は、空腹の時も、孤独な時も、神様への信頼を貫かれました。
その主の強さと優しさが、今、聖霊を通してあなたに注がれています。
あなたが一人で戦う必要はありません。
あなたが「もうだめだ」とうずくまる時、主は静かに隣に座り、「あなたはわたしの愛する子だ」と、何度でも語りかけてくださいます。

 明日からの一週間、それぞれの遣わされた場所へ戻っていかれます。
そこには、それぞれの荒野があるかもしれません。
しかし、どうか顔を上げてください。
目には見えなくても、主はあなたと共にいて、あなたの右の手をしっかりと握っておられます。
パンだけの世界で、パン以上のもの、すなわち神の愛によって生きる喜びを、一歩ずつ味わっていきましょう。
それでは、一緒にお祈りをいたしましょう。

 天の父なる神様。
荒野で勝利された主が、私たちの孤独に寄り添ってくださることを感謝します。
パンだけでなく、あなたの愛の言葉を命の糧とし、主と共にこの一週間を力強く歩み出させてください。
主イエス様の御名によりお祈りします。アーメン。

 

「揺るがない人生の錨」(詩篇16:1-11)

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 皆さん、おはようございます。
先週、大雪のために新千歳空港のロビーで、毛布にくるまって一夜を明かす人々の映像を見ました。
彼らは体こそ空港に留まっていましたが、心の中は不安で漂流していたのではないでしょうか。
『明日の仕事はどうなる』『約束に間に合わない』『いつ家に帰れるのか』。
彼らは皆、『予定通りに目的地に着く』という期待に、心の錨を下ろしていました。
しかし、雪というハプニングがその鎖を断ち切った瞬間、心は行き場を失い、イライラや不安の波に飲み込まれてしまいました。
私たちもよく、『思い通りの人生が進むこと』に錨を下ろしてしまいます。
だから、少しでも予定が狂うと、パニックになり、平安を失うのです。
 しかし、今日私たちが共に開く「詩篇16篇」は、まさにそのような人生の揺れ動きの中で、確かな「錨」を見つけた一人の人物の歌です。
この詩を書いたダビデは、決して順風満帆なだけの人生を送ったわけではありません。
命を狙われ、荒野を逃げ回り、裏切りに遭い、夜も眠れない恐怖を味わいました。
しかし、彼はこの詩の中で「私は揺るがされることがない」と力強く宣言しています。
なぜなら、彼の錨は『順調な生活』ではなく、『神様ご自身』という、絶対に動かない岩に深く下ろされていたからです。
 なぜ彼は、不安の波の中でそれほどまでに強くいられたのでしょうか。
その秘密は、彼が「本当の幸せ」がどこにあるかを知っていたことにあります。
今日、私たちもその秘密を共に紐解き、心の錨を下ろす場所を見つけていきましょう。

 この詩篇の中で最も有名な5節、6節の言葉を足がかりとして、今日のみことばを深く味わっていきたいと思います。
「主は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。
割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です」。
 これは神の主権に対する深い信頼を表しています。
当時のイスラエル社会では、土地というものが非常に重要な意味を持っていました。
かつてイスラエルの民が約束の地に入ったとき、ヨシュアによって部族ごとに土地が割り当てられました。
「測り縄」を使って境界線を引き、ここからここまでがあなたの部族の土地、あなたの家族の財産だと決められたのです。
土地を持つことは、生活の安定であり、神の祝福の証そのものでした。
 しかし、この詩の中でダビデは驚くべき告白をします。
「主(神様)こそ、私の受ける分、私の杯です」と。
これは、ダビデの告白であると同時に、イスラエルの中に相続地を与えられず、代わりに神こそが相続地だと告白していた、祭司の部族、レビ人の立場に立った告白だと言われています。
何よりも相続地が大切にされるイスラエルにおいて、あえて、目に見えない神様ご自身こそが、私の本当の財産だと告白しています。
当時の常識であった「土地=安定」という価値観を超えて、ダビデは「神様との関係=本当の安定」という真理にたどり着いていました。

 私たちは、隣の人の境界線を見て「あちらの方が広い」「あちらの方が日当たりが良い」と妬むことがあります。
これは土地だけの話ではなく、才能や、人間関係なども含みます。
しかしダビデは、神様が引いてくださったその境界線を「好ましい」「素晴らしい」と受け入れました。
なぜなら、その土地の管理人として神様が共におられるからです。
 どんなに広い豪邸に住んでいても、そこで孤独と争いがあれば地獄です。
しかし、たとえ小さな部屋であっても、そこに愛する人が共にいて、神の平安があるなら、そこは天国になります。
ダビデが伝えたかったのは、環境が幸いを決めるのではなく、「誰と共にいるか」が幸いを決めるという真理なのです。
神という杯で満たされた人生こそが、決して枯渇することのない喜びの源泉なのです。
 では、この真理を現代の私たちの生活に、どのように適用できるでしょうか。
 まず、中高生の皆さんに伝えたいことがあります。
皆さんは、SNSなどで友達の生活を見て、「あの子はいいな」「自分はなんでこうなんだろう」と落ち込むことはありませんか。
それは、他人の「境界線」を羨んでいる状態です。
しかし、聖書は語ります。
神様があなたのために引いた境界線は、間違いなく「好ましい所」に落ちているのです。
今はそう思えなくても、あなたという存在は、神様がデザインした最高傑作です。
人と比べることをやめて、「神様、あなたが私をここに置いてくださったのですね」と信頼するとき、心に不思議な平安が訪れます。
 そして、人生の経験を重ねてこられた高齢者の皆様。
過去を振り返り、「あの時こうしていれば」「もっと違う人生があったかもしれない」と、悔やむことがあるかもしれません。
あるいは、体の自由が利かなくなり、自分の領域が狭くなっていくような寂しさを感じることもあるでしょう。
しかし、ダビデの言葉を思い出してください。「主は、私の受ける分」。
たとえ健康や若さ、社会的地位が手からこぼれ落ちていったとしても、あなたの本当の財産である神様は、決してあなたから奪われることがありません。
あなたの人生の境界線の中に、神様は今も、これからも共にいてくださいます。

 最後に、この詩篇の結びの言葉に心を留めましょう。
「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。
満ち足りた喜びがあなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります」。
ダビデは、死の恐怖さえも超える希望を見つめていました。
実は、この詩篇の後半部分は、後に新約聖書の中で、イエス・キリストの復活を預言した言葉として引用されています。
ダビデの子孫として来られたイエス様は、十字架にかかり、墓に葬られましたが、滅びを見ることなく三日目によみがえられました。
このイエス様こそが、私たちに「いのちの道」をはっきりと示してくださったのです。
 今日、私たちはそれぞれの「日常」へと帰っていきます。
そこには、思い通りにならない現実や、面倒な課題、あるいは孤独な時間が待っているかもしれません。
しかし、どうか忘れないでください。
あなたの右の手には、主イエス・キリストがいてくださいます。
幼い子供が、人混みの中で不安になっても、親の温かい手をギュッと握り返された瞬間に安心するように、あなたも主の手を握りしめて歩んでください。
どんなときにも、私たちのすぐそばには、神様という最上の喜びが共にあるのです。
 それでは、お祈りします。

 恵み深い天の父なる神さま、あなたの御名をあがめます。
私たちはすぐに他人と比べたりする弱さがあります。
しかし、あなたが私たちの人生の境界線を決め、私たちと共にいてくださることを知りました。
どうか、一人一人が、あなたの守りの中で、揺るがない平安を持って今週を歩むことができますように。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

 

「この足で届けよう」(ロマ10:13-15)

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 皆さん、おはようございます。
 たった今、私たちは映像を通して、全国各地で奮闘しておられる開拓教会の様子を目にしました。
いかがだったでしょうか。
わずか数人の礼拝、借り物の会堂、それでもそこには、賛美の歌声があり、祈る姿があり、何より牧師先生ご家族の、困難の中にも喜びをたたえた表情がありました。
あの映像は、遠い国の出来事でも、単なる活動報告でもありません。
あれは、同盟教団という、私たちにとって、「大きな家族」の姿であり、神様の愛を届けるために汗を流して戦っている「最前線」の光景です。
 映像を見ながら、皆さんの心に何が残ったでしょうか。
「大変そうだな」と思ったかもしれません。「すごいな」と感心したかもしれません。
しかし、今日私たちが開いている聖書は、その感想を一歩深めるように語りかけます。
「彼らはなぜ、あそこにいるのか?それは、誰かが遣わされなければ、福音が届かないからだ」と。
あの映像に映っていたのは、まさに今日パウロが語る「美しい足」の現代の姿そのものです。
 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」。
この素晴らしい約束は、誰かが伝えに行かなければ、決して届くことのない約束です。
この約束を信じて、あの映像の中の先生たちは、誰かが行かなければならない場所に、神様の召しに応えて「足」を運び、今も走り続けている方々です。
では、映像を見ていた私たちはどうでしょうか。
スクリーンを見つめていた私たちの「足」は、今どこに向かおうとしているでしょうか。
今日は、あの映像の余韻を胸に留めながら、神様が私たち一人ひとりに託しておられる「届ける」という使命について、心に刻みつけていきたいと願います。

 さて、この手紙が書かれた二千年前の世界に少し思いを馳せてみましょう。
当時はもちろん、今のように教会の様子を映像で送ることも、メールで瞬時に報告することもできませんでした。
遠く離れた人々に思いを伝える方法はただ一つ、「人の足」で運ぶことだけでした。
 当時のローマ帝国には、軍隊のために作られた立派な石畳の道が張り巡らされていました。
しかし神様は、人間が戦争のために作ったその道を、平和の福音を運ぶために用いられました。
パウロが引用している言葉は、イザヤ書からのものです。
「良い知らせを伝える人たちの足は、なんと美しいことか」。
 ここで称賛されている「足」とは、モデルさんのように手入れされた美しい足のことではありません。
山を越え、谷を渡り、靴底はすり減り、泥やほこりにまみれ、時には傷つき血のにじむような足だったはずです。
しかし、不安の中で知らせを待ちわびていた人々にとって、その足音ほど心安らぐ、美しい響きはありませんでした。
なぜなら、その足が運んできたのは「戦いは終わった」「平和が来た」という、命を救う知らせだったからです。
 パウロはここで、信仰が生まれるまでの大切なプロセスを階段のように示しています。
「神様が送り出す」から「人が行く」。
「人が行く」から「言葉が届く」。
「言葉が届く」から「聞くことができる」。
「聞く」からこそ「信じる」ことができる。
つまり、信仰というのは、ある日突然空から降ってくるものではなく、誰かが労苦を惜しまず、愛を持って「届けてくれた」結果なのです。
 先ほどの映像に出てきた先生たちがそうであるように、そしてかつて、あなたを教会へと導いてくれた誰かがそうであったように、すべての救いの背後には、必ず誰かの「美しい足」の働きがあるのです。

 この「送り出される」「届ける」というテーマを、日本同盟基督教団という大きな家族の視点から考えてみましょう。
ここには三つの大切な使命があります。
 第一は、「遠くで畑を耕す仲間」への使命です。
映像にあったように、全国には、たった一人で、あるいは少人数で、新しい教会を生み出そうと奮闘している牧師や信徒たちがいます。
彼らは、荒れ地を耕し、種を蒔く農夫のようなものです。
雨の日も風の日も、収穫を信じて働き続けています。
彼らを支えるのは、後方からの支援です。
私たちが捧げる祈りと献金は、彼らにとっての「水」であり「食料」です。
「あなたは一人じゃないよ」「応援しているよ」というエールを送ること。
これもまた、共に宣教の道を歩む「美しい足」の働きなのです。
 第二に、「まだ届いていない場所」への使命です。
先ほどの映像には多くの地域が映っていましたが、実は、新潟、山形の先にある秋田県には、同盟教団の教会がまだ一つもありません。
これは例えるなら、ご近所にお裾分けを持っていくとき、一軒だけどうしても届けられていないお宅があるようなものです。
「あの方にも、この美味しさを味わってほしい」。
その思いが、伝道の原動力です。
秋田という地は、まだ私たちが神様の愛の手紙を届けていない、大切な「お隣さん」なのです。
そこに光を届ける責任と、新たな開拓のビジョンを、私たちは持つ必要があります。
 そして最後の三つ目。それは、私たちの足元への使命です。
豊栄キリスト教会は、神様に守られて50年以上続いてきました。
これは本当にすごいことです。
でも、ここで正直に自分たちの姿を見つめてみたいのです。50年もここに建っているのに、この地元・豊栄の人でクリスチャンになった人は、悲しいくらい少ないのが現実です。
 私たちは、近所でとてもおいしい料理を出す店を見つけたり、感動した本に出会ったりすると、自然に誰かに教えたいと思います。
それが「伝道」の原点です。
もし私たちが、地元の友達や近所の人に教会のことを話せていないとしたら、それはなぜでしょう。
「変に思われるかな」「宗教勧誘って引かれるかな」と怖がっているのかもしれません。
 でも、難しく考える必要はありません。
教会一丸となって地域に進んでいくというのは、無理やり誰かを連れてくることではないんです。
 毎朝の「おはようございます」の挨拶を誰よりも明るくすること。
部活や仕事で辛そうな友達に「大丈夫?」と声をかけること。
そしてチャンスがあれば「私、教会に行ってて、そこで元気もらってるんだ」とポロッと話すこと。
それが、あなたの「美しい足音」になります。
50年の歴史にあぐらをかかず、今こそ私たちが、地元のメッセンジャーとして動き出す時なんです。

 最後に、もう一度冒頭の映像を思い出してください。
映像に出てきたあの小さな会堂を思い浮かべてください。
あそこで今この瞬間も、メッセージを語っている牧師先生とそのご家族のために祈ってください。
「主よ、彼らを支えてください。彼らの足の疲れを癒やしてください」と。
その祈りは、時空を超えて彼らの力となります。
そして私たち自身も、自分たちの足を用いて、みことばを伝えていきましょう。
それでは、お祈りいたします。

「天の父なる神さま、あなたの御名を讃美いたします。
先ほど映像で見た兄弟姉妹たちの上に、あなたの豊かな励ましがありますように。
そして私たちを、あなたの手紙として、この世に送り出してください。
秋田へ、全国へ、そして隣人へと私たちの目を開かせてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。」