聖書箇所 『ルカの福音書』2章1-7節 1そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。2これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。3人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。4ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。5身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。6ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、7男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。みなさん、クリスマスおめでとうございます。ぜひお隣の方ともあいさつしてください。クリスマスは、神の子であるイエス・キリストが私たちのために馬小屋に生まれて下さった奇跡をおぼえる日です。そして馬小屋に生まれるほどに貧しさと苦しみの中を生きたイエスさまは、最後まで苦しみの道の真ん中を通って行かれた。私たちすべての人間の罪の身代わりとして、十字架にかかって死んで下さった。その苦しみの生涯の出発点が、この馬小屋での誕生であったということなのです。 馬小屋で生まれた、というこの事実から、私たちはさまざまなことを思いめぐらすことができます。まず一つは、寒さです。当時の馬小屋は、木を組んで建て上げる小屋ではなく、洞窟をくりぬいて造るような形になっていたそうです。鍾乳洞に入ったことのある方は想像できるかもしれませんが、夏でもひんやりするあの涼しさ、そしてそれが真冬であったなら。また馬小屋は馬の飼い葉をためるところですから、火の気は厳禁であった。ストーブも毛布もなく、赤ん坊が真っ先につかるべく産湯もなく、ただ飼い葉桶に寝かされた赤ん坊、誕生を喜んだ両親の吐く息もおそらく白かったことでしょう。 しかしイエス・キリストはそのような場所に生まれることを自ら望まれて、人として地上に来られたのです。聖書の別の所ではこのように言われています。「キリストは神でありながら、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、仕える者の姿をとられた」と。神でありながら、それをかなぐり捨てて、人として生まれて下さったということです。目に見えず、形をもたない神は人間の身代わりにはなれない。だからキリストは、人間という姿をとるために、おとめマリヤの子として生まれた。すべては、あなたの罪をすべて引き受け、罪の裁きの死の代わりに永遠の命を与えるために。 馬小屋で生まれた、という事実の中には、臭さということも容易に想像できます。私の通った小学校は田舎にあり、少し離れたところに豚小屋、本来養豚場というのでしょうか、がありました。風向き次第でそのにおいが学校にまで漂ってくることもあった。馬小屋と豚小屋の違いはありますが、家畜の糞尿のにおいで溢れているという点で、変わりはありません。そのような所に神の子が生まれて下さったとは、何という驚きでしょうか。しかしじつは、驚くには値しない。イエス・キリストが地上に来られたのは、人の罪をすべて引き受け、身代わりとして十字架で死なれるためでした。私の罪、あなたの罪のために主は死なれた。自分の心の中を探ってみて下さい。他人へのねたみ、性的な欲望、やめようと思ってもやめられない様々な罪、それは家畜の糞尿など比べものにならないほどの悪しきにおいを発しています。におわないのは本人だけ、自分の何気ない罪がどれだけ周りの人々に影響を与えているか、そして神の目にはどれほど怒りの対象として映っているのか。しかしイエス・キリストは本来私たちが受けるべき罪のさばきを代わりに受けるために地上に来られた。永遠の死、という罪の裁きを引き受け、代わりに信じる者に永遠の命を与えるために地上に来られた。悪臭漂う馬小屋に主が生まれたくださったという奇跡は、私たちのどのような邪悪な罪をも引き受ける覚悟で主が地上に来られたということを鮮やかに教えてくれているのです。 ある青年の話を聞いたことがあります。会社での取引の失敗がきっかけになって、彼は精神を病み、入退院を繰り返したあと、部屋に引きこもるようになりました。一日、ぼんやりと過ごす中で、彼は今の生活がむしろ夢で、本当の現実は昔のようにバリバリ働いているのだと考えるようになりました。現実の自分は、この夢が覚めたところにある。だから寝る。でもいくら寝ても現実は変わらない。そんな生活を繰り返している中で、夜は眠れず、太陽が昇ると眠くなるという生活になりました。しかしあるとき、まだあたりが暗い早朝から放送しているキリスト教の番組を見るようになりました。いまは回復して、ある教会に繋がっているそうですが、彼を変えたみことばは次のものだったそうです。「眠っている人よ、起きあがれ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」 イエスさまが馬小屋で生まれたということは、その生涯の最初から、人々に疎外された生き方を選ばれた、ということです。まず普通の人が寄りつこうともしない馬小屋で人生を始められたイエス・キリストは、取税人や遊女といった、人々からのけものにされていた者たちの友として歩み、そして十字架へとつけられました。馬小屋の飼い葉桶の中に生まれて下さった方は、今あなたの心の中に入りたいと願っておられます。寒さも糞尿のにおいも、イエスは決して恥とはされなかった。そして死ぬことさえも無駄とは思われなかった。私たちひとり一人を心の底から愛し、その罪をきよめるために死ぬことさえもためらわなかったお方、それがイエス・キリストです。どうか、クリスマスのこの日、イエス・キリストを救い主として心にお迎えして頂きたく願います。いっしょにお祈りしましょう。2017 新日本聖書刊行会