恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「見えない礎(いし)を磨く喜び」(列王第一8:22-30)

真ん中の再生ボタンを押さず、右下の「見る▶YouTube」を押すと聖書朗読およびメッセージの開始タイミングに直接ジャンプできます

ここをクリックすると説教原稿が出てきます

 みなさん、おはようございます。
今日、私たちはついにこの新しい会堂で初めての礼拝を迎えることができました。
先週までの古家での礼拝を終え、この光に満ちた真新しい空間で、共に主を賛美できる喜びを分かち合いたいと思います。
この日を迎えるために、多くの教会員の皆様が日曜日や祝日を返上して、引っ越しや掃除に協力してくださいました。
床の隅を磨き、重い荷物を運ぶといった、誰の目にもとまらない地道な作業を黙々と担ってくださった方々がいます。
それはまさに、この新しい教会の「見えない礎(いしずえ)」を磨くような尊いお働きでした。心から感謝申し上げます。
私たちの目は時に見落とすことがあっても、神様はその見えない礎を磨く労苦と愛に深く目を留め、豊かに報いてくださいます。

 本日の箇所は、完成した神殿の祭壇の前でソロモン王が祈りを捧げる場面です。
立派な建物が完成したとき、人は得てして目に見える美しさや成果に目を奪われがちです。
しかしソロモンは、完成した建物を見上げるのではなく、天を仰ぎ見て「見えないもの」へと心を向けました。
この新しい会堂の出発にあたり、私たちもソロモンと共に、この場所を支える「見えない礎」に目を向け、御言葉に耳を傾けてまいりましょう。

 当時の古代中東では、神殿とは「神様が実際に住む家」であり、目に見える建物の中に神を囲い込むものと考えられていました。
しかし、ソロモンは全く異なる信仰を告白しています。
27節で彼は、「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。
天も、天の天もあなたをお入れすることはできません。
まして、わたしが建てたこの神殿など、なおさらのことです」と語りました。
どんなに壮麗な会堂を建てたとしても、無限の神様を人間の造った箱に閉じ込めることはできません。

 では、この神殿を支える本当の土台とは何でしょうか。
それは石や木材ではなく、29節にある「わたしの名がそこにある」という神様の約束です。
聖書において「名」とは、神様のご臨在そのものを表します。
つまり、「わたし自身がここにいて、あなたたちに深く関わる」という目に見えない力強い約束こそが、この場所の真の礎なのです。
神殿とは、私たちが神様を所有するための建物ではなく、偉大なる神様と小さく弱い私たちが、祈りという細い糸で結び合わされるための「恵みの交差点」です。
神の真実という見えない礎の上に、私たちの祈りが積み上げられていくのです。

 ソロモンが祈ったように、この新しい会堂も神様を囲い込む場所ではありません。
むしろ、ここから地域社会へ、そして世界へと、神様の愛が開かれていく拠点です。
その恵みは、建設のプロセスにおいても豊かに現れていました。
通常、新しい教会堂を建設する際、近隣の方々からは懸念の声が寄せられるものです。
私たちも不安を抱えていました。
しかし工事期間中トラブルは皆無であり、内覧会にはお隣やお向かいの方々が真っ先に足を運び、「ステンドグラスが綺麗ですね」と温かい言葉をかけてくださいました。
この平和な関係も、一朝一夕にできたものではありません。
このお湯も出ない古家での三年間、不自由な中でも皆様が誠実に礼拝を守り生きてこられた歩みが、地域の方々との間に「信頼」という見えない礎を築いていたのではないでしょうか。
教会は、高い壁を築いて地域から孤立するものではありません。
「平和の君」であるキリストを礼拝する場所が、地域の調和の中に生み出されたことは何よりの祝福です。
築かれた見えない礎の上に、「町の上の光、地の塩」として愛をもって仕えていく歩みを、ここから新たに始めていきたいと願っています。

 中世ヨーロッパでのことです。
ある町で、教会のシンボルとなるような巨大な大聖堂の建築が進められており、そこに一人の無名の彫刻家が雇われました。
彼は割り当てられた仕事を見て、少しがっかりしたかもしれません。
なぜなら彼の担当は、美しい天使や立派な使徒の像ではなく、屋根の端に取り付けられる「ガーゴイル」──雨水を吐き出す、あの不気味な怪物の像だったからです。
しかし彼は、これも神の家を造る大切な要素だと受け止め、工房で丹念にノミを振るいました。
そしてなんと、高い屋根に据えられたら下からは絶対に見えなくなる、その背中のコウモリのような翼の細部に至るまで、一切の妥協なく精巧に作り上げていったのです。
それを見た町の会計担当者が、呆れたように非難しました。
「教会堂の屋根に取り付ける怪物の背中なんぞに、なぜ無駄な時間と費用をかけるのか。
そんな高い所の裏側を、いったい誰が見るというのだ!」。
その時、彫刻家は静かに、しかし力強くこう答えたそうです。
「いや、神が見ておられる(God sees it.)」。

 私たちもまた、人間の目には見えないところで多くの労苦を捧げています。
引っ越しの段ボールを片付け、床を磨き、家庭や職場で誠実に働き、誰にも言えない重荷を負いながら祈り続ける。
それは時に、華やかな天使ではなく、誰の称賛も得られないようなものの背中を彫るという作業かもしれません。
しかしそれこそが、教会にとっては、見えない礎をひたむきに磨き続けるということです。
29節で「夜も昼もこの神殿に、あなたの目を開いてください」と祈られているように、神様は私たちが隠れたところで礎を磨く汗と涙を、はっきりと見ておられます。
神様の優しいまなざしは、私たちの心の最も奥深くにまで届いているのです。

 神様が見ておられるという恵みは、さらに驚くべき形で広がっています。
現在、録画した説教をYouTubeで配信していますが、先日、その配信を見てくださっている方からお電話がありました。
「今は画面越しですが、いずれぜひそちらの教会に行きたいです」と語ってくださいました。
聖書に「知られないようで、知られており」(第二コリント6章9節)とある通りです。
古家での三年間も含め、私たちが祈りつつ磨いてきた見えない礎は、決して無駄ではありませんでした。
目に見えない奉仕も、地域との平和な関係も、配信という働きも、すべてが神様の御手の中で組み合わされ、新しい魂との出会いという目に見える喜びの実を結びつつあるのです。

 「祈りを聞き届けてください」というソロモンの願いは、今日、この新しい会堂で礼拝を捧げる私たちの祈りそのものです。
この場所が、悲しむ者が慰められ、疲れた者が安らぎを得る真の祈りの家となりますように。
皆様がこれからも、見えない礎を磨く喜びに満たされながら、新しい一週間を歩んでいかれますように。
隠れたところを見ておられる主の豊かな報いと、御顔の光が豊かに注がれることをお祈りいたしましょう。