恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2020.12.13主日礼拝説教「信仰とは忠実」(ルカ17:5-10)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。 週報はこちらです。 聖書箇所 『ルカの福音書』17章5-10節 序.  先週、メッセージで語らせて頂いたところですが、イエス様は弟子たちのほうを振り向いて、こう言われました。 「兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て、『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい」。  私も約二十年間の牧会の中で、この言葉が刃のように突き刺さることを何度か経験してきました。 それらの出来事は、いまも私の心に小さな痛みを与えています。 「悔い改めたのだから赦さなければならない」という思いと、 「悔い改めたのなら、どうして同じことばかり繰り返すのか。本当に赦すべきだろうか」 そんな思いが交錯し、涙を流しながら、神さまの前に祈ったこともありました。自分自身に、愛が足りないことが心に迫りました。 1.  しかしイエスの十二弟子、つまり使徒たちは、そのときに私が感じたもの以上のことが心に迫ってきたようです。 5節をもう一度お読みします。 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください」。 何度でも赦しなさい、というイエス様の命令に対して、彼らは反応したのです。 しかし「愛を増し加えてください」ではありませんでした。「信仰を増し加えてください」と主に願ったのです。 人は、自分の力では赦せません。神が私を赦してくださったという確信がなければ、人を赦すことができません。 その確信を与えるのが信仰です。しかしその信仰さえ、もともと私たちにあったものではなく、神に与えられたものです。 ですからイエス様はこう答えられました。 「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に根本から抜かれて、海の名に植われと言うなら、あなたがたに従います」。  「からし種」とは、もっとも小さな野菜の種です。それに対して桑の木は成長すると10m以上になる、もっとも大きな野菜と言えます。 私たちの信仰を増し加えてください、という求めに対するイエス様の答えは、目に見えないほど小さな、からし種の信仰さえあればよい、でした。 信仰とは、スポイトの先のたったひとしずくでビルを爆破するダイナマイトのようなものです。 信仰ということばのてっぺんに「私たちの」をつけているようでは、その破壊力は生まれないし、わかりません。 私には何もない、と認めることです。 しかしこの何もない私の空っぽの中に、神がからし種ほどの信仰さえ与えてくれたら、何でもできるのです。 実際、私たちは自分の感情をコントロールして、自分を傷つけた相手と向き合うことさえも不可能に思えます。 しかし小さな小さな、からし種のような信仰を神から受け取って、私の中に植えつけていただくならば。そうすれば、不可能を越えます。 桑の木よ、海の中に植われ。信仰をいただくとき、桑の木が海へと飛んでいきます。ならば、私たちの感情も、信仰によって、従います。 そして赦しというみわざが、まさしく現実のものとなるのです。 2.  ところで、7節から最後の10節まで、それまでのメッセージとどう結びつくのか、難しく思われるかもしれません。 しかし、ギリシャ語で書かれた原文では、この7節のはじめのほうに「しかし」という言葉が含まれています。 ですから、私はここにあるイエス様のことばを、次のように解説すべきかと思います。 あなたがたは信仰を神に求めなさい。からし種ほどに小さくても、それはあなたがた自身を含め、すべてのものを従える力を生み出します。 「しかし」、あなたがたは、桑の木を海の真中へ移し替える、そのような奇跡そのものに夢中になってはなりません。 すべてを従わせることのできる、この信仰は、あなたがたがわたしのしもべとして忠実に歩む、その毎日の生活の延長にあるのだから、と。  英語で「信仰」のことをfaithと言います。この言葉からfaithful、あるいはfaithfullyといういくつかの言葉が派生しました。 しかしfaithは「信仰」ですが、faithfulは「信仰深い」という意味ではありません。「忠実な」とか「誠実な」という意味なのです。 つまりこれは、信仰というのは決して打ち上げ花火のようなものではなく、地道かつ忠実な生活を繰り返していくことを意味しているのです。 信仰は、土壇場になって突然花開くものでは決してありません。日頃、祈りや礼拝、奉仕がなおざりであれば、土壇場でも同じです。 これも言葉の豆知識ですが、「土壇場」という言葉のもともとの意味は、江戸時代、罪人が処刑される場所のことを指します。 罪人が首を切られるとき、白洲という白い砂利が敷かれたところから、土が一段盛り上がった場所に四つん這いにさせられたそうです。 そこから転じて、もう自分の力ではどうすることもできず、死んだ気になって向かっていかなければならない場面を「土壇場」と言うようになりました。 私たちクリスチャンは、イエスのためなら、喜んでいのちも捨てる、と言います。ふだんからいのちを捨てているならそれができるのでしょう。 しかしそうではなく、ふだんは口先の信仰告白とかたちだけの礼拝で生きているようであれば、最後になったら逃げ出します。  ほんとうの信者は、いつも生きることを考えています。英雄のように死ぬことではなく、イエスのために今日をどう生きるかを考えています。 まことの信仰は、今日、自分がなすべき信仰生活を、地道に、忠実に、粛々と行います。 その何気ない、当たり前の生活の忠実な繰り返しこそが、信仰です。 3.  桑の木を海から移すほどの信仰を、イエス様が使徒たちに与えられたのは何のためでしょうか。 そのような奇跡そのものを起こさせるためではありません。自己顕示欲を満たすためだったら、桑の木は一ミリも動きません。 桑の木さえも動かす信仰は、ふだんから神さまのために自分の一日をささげる者たちのために与えられました。 いつも主人のために羊たちを何キロも連れ歩くようなしもべ。今日も主人のために畑の畝を何メートルも掘り続けているしもべ。 そのように、忠実な者たちに対して、主人である神さまは、ご自身が必要と認めたときに、桑の木を移す信仰さえも与えてくださるのです。  イエス様は最後にこう言われました。10節をお読みします。 「同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」 私たちは、一週間、24時間、いつも神のしもべとして生きています。そこには、罪赦された罪人が、さらに神の子どもとされた喜びがあります。 だから、主人に対していやいや従うような、義務感だけで従うようなことはありません。 そしてすでに永遠のいのちという報いが用意されているのですから、信仰を御利益を受ける手段とするような生き方もしません。 神さまは、「よくやった。よいしもべだ」と言ってくださるときもあります。しかし何も言ってくださらないときもあるでしょう。 しかしどんなときであっても、謙遜に、地道に、忠実に、主のしもべとして生きていこうとする者に、不可能はありません。 これからの一週間も、救い主イエス・キリストのために生き、この方を知らない人々に伝えていきましょう。