恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2020.12.6主日礼拝説教「何度でも戒め、何度でも赦す」(ルカ17:1-4)

 こんにちは、豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 外出自粛やテレワークの中で経済的、精神的に疲れをおぼえておられる方々に、神様からの慰めがありますようにと祈ります。 週報はこちらです。 聖書箇所 『ルカの福音書』17章1-4節 序.  教会暦では先週からアドベントに入り、今日はその第二週です。四本の燭台のうち、ふたつをこうして灯しています。 本当は28本くらい燭台を並べて、毎日一本ずつともして盛り上げたいところですが、昔から4本、または当日含め5本と決められています。 古の教会では、アドベントの四週間それぞれにはテーマも決められていて、礼拝説教もそれに即したメッセージが語られていたそうです。 少し紹介しますと、第一週のテーマは希望、第二週は平和、第三週は愛、第四週は喜びとなっています。 今日はあえて、クリスマスに関連した聖書箇所ではなく、アドベント第二週のテーマである「平和」をおぼえながらみことばを共に味わいましょう。 「平和」といっても、国際平和ではなく、「神との平和」、そして神との平和をいただいたクリスチャン、兄弟姉妹同士の「平和」についてです。 1.  1節、2節をもう一度お読みします。 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。 その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。」  ここにある「これらの小さい者たち」とはいったいだれのことでしょうか。 ここに至るまでのルカ福音書の記事に従って考えていくと、じつは15章の最初にまで遡ります。そこにはこう書かれていました。 「さて、取税人や罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人を受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。」 他の福音書では「小さい者たち」を文字通り幼子のことを表しているものもありますが、このルカ福音書では、「これらの小さい者たち」とは、イエスのもとに救いを求めにやってきていた、取税人、売春婦、罪人と呼ばれる人々のことを指しています。 彼らはすでに罪を犯している者たちです。つまずきをもたらす者という意味では、彼ら自身がすでにつまずきを起こさせている者です。 しかしイエスは、その彼らにさらにつまずきを起こさせている者たちがおり、彼らは石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれた方がましだ、と。 その彼らとは、彼らを批判していたパリサイ人、律法学者たちです。彼らは、イエスのもとにきた罪人たちを、そこから引き離そうとする罪人です。 それをイエスは弟子たちに対して警告されました。それは弟子たちの交わりの中にも、罪人が罪人を批判するという危険があったからです。 2.  私たちは、イエス・キリストを信じて、神との平和をいただいた者たちです。しかしそれを罪を犯さなくなったということではありません。 罪がもたらすさばきからはイエスによって完全に解放されましたが、赦された罪人であり、やはり私たちは罪を犯してしまいます。 その罪を自分の努力でやめようとしたこともあるかもしれません。しかしそれは決してうまくいかず、信仰から喜びが失われていくだけです。 「つまずき」という言葉から私たちがイメージするのは、足をひっかけられたり、膝が折れたりして転倒することかもしれませんが、 「つまずき」と訳されている言葉は、「罪」を意味します。罪が起こるのは避けられない、しかし罪をもたらす者はわざわいである、 その者にとっては小さな者たちの一人に罪を犯させるより、挽き臼を首に結びつけられて、海に投げ込まれるほうがよい、と。 ここで私たちが認めなければならないのは、 私たちはここでいう「小さな者たちのひとり」であるとともに、「つまずきをもたらす者」のひとりでもあるということです。 罪を犯さないでいられる者など、ひとりもいません。イエス様のもとにきた罪人たちをさしてイエスは「小さな者たち」と呼ばれたこともそうです。 「小さな者たち」とは、罪を犯さない純真無垢な人々ではなく、自分自身も罪を犯し、しかしそれでもイエスに救いを求めて来た人たちでした。 パリサイ人や律法学者は彼らを罪人と呼び、批判しました。しかし彼ら自身もまた、自分自身を正しいとする、罪人でした。 だから聖書は私たちにこう語っているのです。あなたを含めてすべての人間が、もともとは海に投げ込まれてしかるべき者たちなのだ、と。 しかしそのためにイエスの十字架がありました。罪を犯さずにはいられないような者たち。救われた後でもまだ罪を犯し続ける者たち。 本来であれば石臼を首に巻き付けられて海の深みに投げ込まれても文句は言えないような罪人、そんな私のためにイエスは死んでくださった。 私も罪人のひとりだ、いや、私は罪人のかしらなのだ、と認めるところに、本当の意味での聖徒の交わりがあります。 私たちのだれ一人として、イエスの助けなしに罪と戦える者などいません。 罪の力に対してあまりに弱く、脆く、そしてその自分の弱さ、脆さが他の人々に罪を犯させてしまう、そのような者たちです。 しかし私たちが自分がその弱さ、脆さを認める、ただ神がイエスによって私を赦してくださった、完全に赦してくださった、 だから私たちは、どんなに自分が罪に対して無力で弱い者であったとしても、心には平安が与えられます。 それはその平安の根拠が、罪を犯さない私にではなく、罪を赦してくださったイエスにあるからです。 3.  「つまずき」と訳されているギリシャ語は、スカンドロンという言葉ですが、ここから英語のスキャンダルという言葉が生まれました。 インターネットを少し調べただけで、さまざまな教会で起きた、牧師や信徒のスキャンダルについて、山ほど出てきます。 しかし教会でスキャンダルが起きることそのものがおかしい、と考えるならば、イエスが語られたことそのものを否定することになるでしょう。 教会は救われた者たちの集まりだから罪や醜聞、不祥事とは無縁なのだ、ということでは決してありません。 開き直ることはいけませんが、救われた罪人の集まりだからこそ、つまずき、すなわちスキャンダルが起こるのだ、とイエスは警告しておられました。 もしあなたの兄弟姉妹が罪を犯したなら、戒めなさい。そして戒めの結果、悔い改めるなら、赦しなさい、と語られました。  じつは、戒めるよりも赦すほうが楽です。ここでいう戒めとは批判や攻撃ではなく、愛をもってその人の過ちを指摘するということです。 教会の中で罪が起きたとき、誠実な態度でそれを指摘し、矯正していくのは時間もエネルギーもかかります。 それくらいであれば、「赦します」と被害を受けた側が一方的に宣言することで水に流して早期決着をはかることができます。 中世の神学者は、それを「安価な赦し」と呼びました。イエスが自分のいのちをすてて神の赦しを全人類にもたらしたのに対し、人間はただ「赦します」というだけで何の犠牲も払わずに赦しを与えてしまうことを皮肉ったのです。 イエスは、兄弟が罪を犯したならまず「戒めなさい」と言われました。愛をもって罪を指摘し、その人が悔い改めて、そこで赦しがあります。 罪を自覚していないところには、赦しの力は働きません。罪を悔い改めていない者に赦しを与えることは、罪を助長することになります。 しかし戒めを受けて罪を認めて悔い改めたならば、たとえその悔い改めたはずの罪が何度繰り返されても、私たちは赦すべきです。  なぜでしょうか。それは、聖書における罪の赦しとは、その罪を完全に忘れ、はじめからなかったことになることだからです。 私たちは同じ罪を何度でも犯してしまいます。悲しみ、もうやらないと心に誓っても、またやってしまいます。そのたびに神さまに悔い改めます。 しかし神さまはそのときに「またやったのか。しょうがないなあ。これっきりだぞ」とは決して言われません。 なぜなら、神が私たちを赦すとき、それははじめからなかったこととして完全に神の記憶から消し去られるからです。 クリスチャンにも、終わりの日のさばきを、まるで閻魔大王が閻魔帳を開いて生前の罪をあばくかのようにイメージしている人がいるようです。 しかしイエスの十字架は、私たちの罪を過去から未来に至るまで、完全に消し去ります。 私たちは神のさばきの日においても、イエスとまったく同じように真っ白な者として、キリストの無垢な花嫁として扱われるのです。 だから私たちは、兄弟姉妹が罪を犯し悔い改めるなら、「またか」ということであっても、何度でも赦します。回数無制限で赦します。 神との平和をいただいた私たちは、兄弟姉妹のあいだでも同じ平和をいただきます。戒め、悔い改め、赦す。心に刻みつけましょう。