恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2018.1.21「みことばだけが勝利の鍵」(マタイ4:1-11)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。

当教会では毎週水曜夜に祈祷会を開催しておりますが、今晩は祈祷会を中止することにしました。

参加者のほぼ全員が車で通ってくることもあり、夜間の運転には危険が伴うことを考えての判断です。

今晩は牧師夫妻だけで祈祷会を行います。もしこれをご覧になった教会員の方は、ご自宅でお祈りください。

なお約束できませんが、久しぶりにネット中継できるかどうか試してみます。

映らなかったら、試したが頓挫したとご理解ください。今晩19:30~21:00までこちらです。終了しました

それにしても、先週あれだけ大雪に苦しんだのに、「過去最強の寒波到来」って、先週のは一体何だったんでしょう。

週報はこちらです。

聖書箇所 『マタイの福音書』4章1-11節 

今週は、カメラの電源を入れ忘れてしまっていたのでメッセージの録画はありません。ご容赦ください。

序.

 市役所勤めをしていたとき、同じ係の先輩が「ああ定年が楽しみだわ」と言ったことがありました。

私が「なんで定年が楽しみなんですか」と聞くと、「だって役所に入ってずっと有給もとれない忙しい生活をしてきたじゃない。

定年になったら、友だちと色々な所を旅して、現地のンマイものをたくさん食べて、ああ楽しみだわ」。今にもよだれを垂らしそうな感じでした。

ところが、その方が定年されたしばらく後に聞きましたら、定年になってからしばらくは旅行も楽しかったけれど、すぐに飽きてしまった、と。

どの観光地に行っても、名物料理なんてだいたい同じだし、結局今は旅行もしないで、ボランティア活動に精を出している、ということでした。

 よくある話ですが、これは心理学者マズローが提唱した「欲求の五段階説」に合致しています。

食欲ということに着目して説明すると、人間の欲求は、何でもいいから食べたい、というところから始まる。

それがある程度満たされると、今度はおいしいものを食べたい、となる。

それもある程度満たされると、今度は何を食べるかよりも、家族や友人と一緒にいたい、となる。

それもある程度満たされると、今度は社会に自分の存在を認めてもらいたい、となる。

それもある程度満たされると、今度は人に認めてもらうことよりも、自分にしかできないことをやり遂げたい、となる。

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マズローがこれをピラミッド型に描いたのは、高次の欲求はより低次のものに対する不可逆性を有しているからです。

つまり、ひとたび上の段階の欲求を満たしたならば、それより下の欲求に対するモティベーションは持続しない、ということ。

彼女はすでに役所の生活の中で、すでに第四段階の「社会に自分の存在を認めてもらいたい」という欲求の充足をある程度味わっています。

それに対して、おいしいものを食べたいは第二段階、友だちと一緒にいたいは第三段階、と、欲求レベルが下に位置している。

一度上のレベルを味わってしまったら、下のレベルの欲求は、本人が期待するほどの満足は与えられない、となるのです。

だから第四段階の上、第五段階でしか彼女は満足を得られない。第五段階は、自分にしかできないことをやり遂げたい、です。

もしかしたら今頃は、陶芸や生け花といった趣味を見つけて、懸命に精進されているかもしれません。

1.

 マズローの欲求の五段階説は1943年、今から75年も前に唱えられたものですが、今も心理学の世界ではよく紹介されます。

「欲求が満たされる」なんて絶対的なものではなくて個人差があるものです。

にもかかわらず、マズローの考えが決して古さを失わないのは、彼が人の心の中にある欲求を冷静に分析しているからです。

食べたい、眠りたい、といった原始的欲求に始まり、所有欲、支配欲。あるいは誰かといっしょにいたいというささやかな欲求。

人から認められたい、愛されたいという叫びに似た欲求、そして自分の本来の力を、あるべき場所で発揮したいという自己実現願望。

しかしマズローが20世紀半ばにようやく発見した、人の欲求の仕組みは、すでに二千年前に聖書は指摘しています。

いや、「聖書は」というよりは「悪魔は」と言うべきでしょうか。悪魔は、イエス様への誘惑を通して、

「俺はお前たち人間の持っている欲求を、誘惑に陥りやすい心を知り尽くしているんだぞ」と言っているかのようです。

 現代の多くの人々は、聖書に出て来る悪魔など、当時の迷信が作り出した想像の産物として嘲り、悪魔の実在を否定します。

しかし悪魔は、人間だれしも空腹を満たすことから欲求の第一段階が始まるのだということを知っています。

腹が満たされれば、物がほしくなる。物をいくら手に入れても、誰かに認められなければむなしさを感じるということも知っている。

イエス・キリストが味わった誘惑は、じつに私たちが実際の生活の中で味わう誘惑そのものです。

食べること、手に入れること、支配すること、世に自分を認めさせること、だれかに特別に取り扱ってもらうこと。

もちろん、欲求すなわち罪ではありません。愛し、愛されることも欲求です。

しかし悪魔は、本来善きものである欲求さえも、悪しきものへと駆り立てるほどに、人の心を知り尽くしています。

愛したいという思いを支配欲へと変質させ、愛されたいという思いを依存心へと堕落させることも、悪魔にとってはたやすいことです。

悪魔に私たちはどのようにして抵抗すべきでしょうか。聖書はその原則をこう教えています。ただみことばのみ、と。

石をパンに変えてみよという誘惑に、イエス様はこう答えました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」。

ここから飛び降りよという誘惑には、「あなたの神である主を試みてはならない」と。

そして悪魔を拝めば、この世のすべてを与えるという誘惑に対しても、ただみことばだけを宣言し、悪魔を退かせました。

2.

 私たちは、聖書だけで悪魔に対抗し、勝利することができるのです。

たとえ悪魔が私たちの心と欲望を知り尽くしていたとしても、神のことばを確信をもって、口で告白するとき、悪魔は退きます。

私たちが信仰をもって神のことばを語るとき、それは何物をも打ち破る力となります。しかし注意しましょう。

悪魔にとって神のことばとは、吸血鬼に対する十字架やニンニクとは違うのです。意味も知らないで壁に貼ったところで、何の力もありません。

第二の誘惑の場面、6節をご覧ください。悪魔は驚くべきことを口にしています。

「神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

これはどの聖書に書いてあるみことばですか。下の索引を引かなくても言えますか。じつに悪魔は私たちよりも聖書に詳しいのです。

悪魔は聖書をこわがりません。むしろ聖書を自由に用いて、私たちが正しく理解しているかどうか、かまをかけてきます。

実際に、創世記3章の中で、蛇すなわち悪魔は、何と言ってエバに話しかけてきたでしょうか。

「あなたがたは園のどんな木から食べてはならない、と神はほんとうに言われたのですか」。

悪魔は、神のことばを平気で口にします。しかし悪魔は、神の言葉を使って、人が神を疑うようにしむけます。

だから、神のことばは、信仰と確信をもって告白しなければ、何の力もないのです。

しかし逆に、信仰と確信をもって告白するならば、悪魔がどんなに巧妙な策略を仕掛けてきても、その企みを木っ端みじんに打ち砕きます。

この真理を、イエス様はご自分の模範を通して教えてくださいました。信仰のみ、みことばのみ、勝利のみ、と。

 私たちがこうして教会に連なっていることは素晴らしいことです。しかしそれだけでは悪魔の試みに対抗することはできません。

教会に連なり、礼拝、祈祷会、日々の家庭の中でみことばの正しい意味を学び、教えられ、適用していくことが「聖書のみ」に含まれています。

聖書通読も大事です。暗唱聖句も大事です。しかしもっと大切なことがあります。

神のことばひとつ一つの正しい意味を学び、それを自分自身が言葉として説明できるようにできるようになることです。

それができなければ、私たちはエバのように、聖書を知らないことをつけ込まれ、悪魔の誘惑に屈してしまいます。

イエス様が、サタンの誤った聖書の解釈を、別の聖書の言葉で正したように、誘惑に勝利することができません。

結.

 今日の聖書箇所には、イエス様が私たち人間の受けるすべての誘惑を前もって経験し、ことごとく勝利してくださった姿が記されています。

イエス様だから勝利できたのでしょうか。私たちがどんなに聖書を学んでも、人の力を越えた悪魔に太刀打ちすることは不可能でしょうか。

いいえ、最後に一つの言葉に注目してみましょう。それは、悪魔が何度も繰り返している、「もしあなたが神の子なら」という言葉です。

あなたが神の子なら、石をパンに変えてみよ。あなたが神の子なら、下に身を投げてみよ。

悪魔は、神の子とは奇跡を起こすことができる者のことだと考えています。聖書は知っていても聖書をまったく理解していません。

「神の子」であるイエス様が、「神の子」としての力を用いず、ただ神のことばだけで勝利したのは、私たちに戦いの模範を示すためでした。

人がイエス・キリストを信じて「神の子ども」とされるというのは、力を使って悪霊と戦うことではありません。

イエス様と同じように、ただ神のことばだけを使って、悪魔悪霊と戦うからこそ、クリスチャンはイエス様と同じ「神の子」と呼ばれるのです。

私たちは聖書を読むだけではなく学びます。覚えるだけではなく理解します。知るだけではなく実行します。

かつては自分が何を求めているのか、何が必要なのか、生まれてきた意味も、死んだ後どうなるのかも、混乱し、答えのない人生でした。

しかし今は違います。ただ聖書だけが、この世を神から引き離そうとする悪魔の策略を打ち砕くことができるということを知り、学んでいます。

罪を悔い改めて、イエス・キリストを信じましょう。人生のすべての解決が、ただこの聖書に現されたイエスにだけあることを語りましょう。