恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

2018.1.28「大きないちじくの木の下で」(ヨハネ1:43-51)

 こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。 私は新潟生まれの新潟育ちですが、ネイティブの新潟人でさえちょっとした鬱状態に陥ってしまう、今月後半の天候です。 日光にあたることがこんなに大事なんだと、この歳になってようやくかみしめています。 ただ不思議なのが、生粋の関東人である妻が元気なこと。 水道管が凍結してトイレの水が流れないという非常事態の中でも、まるでバイブルキャンプのように柔軟に対応しています。 こっちが苦しいときは向こうが元気で、向こうが苦しいときはこっちが元気だったり。 夫婦は二人ではなくひとりとありますが、シーソーみたいなものですね。神様がバランスをとってくださっているのでしょう。 前半は圧倒的な暖冬だったこの天候も、神様のバランスなのかもしれません。週報はこちらです。 聖書箇所 『ヨハネの福音書』1章43-51節  1.  私は世間話が苦手です。世間話ができる人を尊敬します。だから、もっぱら教会の婦人たちのことを心から尊敬しています。 以前、まじめな気持ちで、古本屋で「世間話ができるようになる本」というのを立ち読みしたことがあります。 それによると、世間話としてとっかかりやすいのは、天気の話、テレビの話、旅行の話。テレビは見ませんし、旅行もしません。 いっぽう世間話に持ち出してはいけないのは、政治の話、宗教の話、死んだ人の話。牧師の得意分野です。 ナタナエルにイエス・キリストを紹介したピリポは、さぞ世間話が得意だったのではないかと思います。 なぜかというと、彼は十二弟子の中で屈指の人脈を持ち、子どもから外国人に至るまであらゆる人をイエス様のところに連れてきたからです。 ここでナタナエルとイエス様を結びつけた後、彼は五つのパンと二匹の魚を持っていた少年をイエス様に紹介しています。 さらにその後はイエス様と会いたがっていたギリシヤ人の一行をイエス様に紹介します。 こういう人が一人いるとたいへん助かります。初対面同士の集まりでも話題に詰まることがありません。  しかしピリポはただ話題が豊富だったわけではないでしょう。人々の心の中に潜んでいる求めに敏感な人だったのです。 その求めとは、自分の持っているもの、あるいは自分の人生そのものを尊いことに用いてほしいという願いです。 神のためにわずかなパンと魚を差し出そうとする少年の願いを知り、それをイエス様に伝えました。 そして、ナタナエルにイエス様を紹介したのも、単に知り合いだったから、ということではありません。 ナタナエルの心の中にある求めをピリポは知っていました。そしてイエス・キリストならばそれに答えてくださるという確信がありました。 だからこそ、「ナザレから何の良いものが出るだろうか」と一度は拒まれても、「来て、そして見なさい」と言うことができたのです。 2.  ナタナエルの心の中にはどんな求めがひしめいていたのでしょうか。 ナザレ人と言ってバカにしていたナタナエルが、わずかな会話を通して悔い改めイエスを神の子として信じるに至ったのはなぜでしょうか。 それは、イエス様の発する言葉一つ一つが、彼の心の中にあるヒリヒリするような痛みを的確にメスのようにえぐり出していったからです。  イエス様がナタナエルに呼びかけた言葉を並べてみましょう。 「これこそほんとうのイスラエル人」「彼のうちには偽りがない」そして「あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」。 これらの言葉は、ナタナエルの中にふつふつと煮えたぎっている、自分はイスラエル人として何ができるのか、という思いに響きました。  「いちじく」はイスラエル人にとって、単なる果物にとどまらない意味を持っています。 いちじくの木は、ぶどうの木と並んで、イスラエルが神のことばに従うならば豊かな実を結ぶという信仰の象徴です。 ナタナエルは、ローマの圧政に苦しんでいる祖国イスラエルの将来を本気で憂える者でした。 たとえるならば、幕末の日本のために立ち上がろうとしていた坂本龍馬や新島襄のように、青雲の志を持っていたに違いありません。 それはイエス様が「本当のイスラエル人」とたたえ、「彼のうちには偽りがない」と賞賛するほどの熱くたぎる思いでした。  しかしナタナエルには、そのために自分は何をしたらよいのか、という答えがありませんでした。 「ナザレから何の良いものが出るだろうか」といっぱしの皮肉を垂れる一方で、じゃあ自分は良い実を結ぶために何をしているのか。 彼は力もなく、策もない、自分自身に対して怒りを燃やしながら、日々過ごしていたに違いありません。 ピリポはそれに気づいていました。だからこそ、すべての解決者として、イエス・キリストを彼に紹介しなければならないと考えました。 「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたがいちじくの木の下にいるのを見た」。 この言葉は、後にイエス様が弟子たちに言われた、 「わたしはぶどうの木であなたがたは枝です。枝が木にとどまるならば豊かな実を結びます」に繋がっています。 ピリポが紹介する前に、イエスという大きないちじくの木にナタナエルはすでに結びついている、という永遠の神の約束です。 そこにナタナエルは人の心の中をすべて見通される神のまなざしを見ました。 自分のもがき、苦しみをすでにこの方は知っておられたのだ、と。  私たちのすべての悩み、痛みも、ナタナエルの心と同様に、イエス様はすべてを知っておられます。 ピリポのことばを心の中で繰り返しましょう。「来たれ、そして見よ」。 キリストのもとに来なさい。そしてこの方からあふれ出る恵みを見つめなさい。 たとえ私たちの抱えるものが、どんなに親しい人にも打ち明けることができないほどに重いものであっても、神は知っておられます。 知っておられるだけではなく、ご自分がその重い痛みを代わりに背負うと約束してくださいました。それが十字架です。 3.  イエス様は、ナタナエルに最後にこう語られました。 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」 この言葉は、旧約聖書の創世記に描かれている、イスラエル人の祖先ヤコブが経験したできごとを下敷きにしています。 長男の権利を得るために、兄エサウをだまし、それによって住み慣れた家を出なければならなくなったヤコブ。 罪悪感と、後悔を強引に心の底に沈めて、ひたすら母の故郷へと足を進めるヤコブの前に、神は夢を通して現れました。 それは、一つのはしごが天から地に向かって、つまり普通のはしごとは逆方向にかけられ、 神の御使いたちがそこを上り下りしている夢でした。 そして夢うつつのヤコブに神は語られます。「わたしはあなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」。 天から地に向かってかけられたはしごは、神からヤコブに向けられた温かい手のぬくもりです。 たとえヤコブが自分からその手を離しても、はしごは取り去られない。神が手を離さないかぎり、いつまでもはしごは立ち続ける。 イエス・キリストはその物語を改めて語られます。人の子とは、十字架で死なれるイエス様のことです。 イエス様が十字架で死ななければならなかったのは、私たちすべての人間が生まれながらに犯している罪のためでした。 しかしイエスは、たとえそうであっても、わたしはあなたを決して捨てない、と信じる者たちに約束してくださいました。 この言葉を改めてイエス様から聞いたナタナエルは、何と大きな励ましを受け取ったことでしょうか。 結.  イエス・キリストは私たちにも、同じ慰めを与えてくださいます。 たとえどれだけの財産を得ようとも、健康を手に入れようとも、愛らしい家族を持とうとも、人は人生に平安と満足を得ることができません。 人生を本当に満たしてくださる、神との交わりそのものを見失っているからです。 しかしイエス・キリストは私たちのためにご自分の命を引き換えにして、私たちのすべての罪のさばきの身代わりとなってくださいました。 それは私たちが罪の重荷から解放されて、喜びにあふれて、人生のすべての日々を受け取るためです。 イエス・キリストを信じて永遠のいのちをいただきましょう。 そうすれば、今日何が起ころうとも、明日何が待っていようとも、すべての日々を感謝をもって受け止めることができます。 私たちに今日、イエス様は呼びかけておられます。わたしはあなたを決して捨てない、と。 この方を心に受け止めて生きるとき、心には平安があり、満足があります。 ひとり一人が、このイエス・キリストを心に受けいれて、神の交わりの中に生きていこうではありませんか。