こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
熊本・大分地震の被災者の方々の上に、主の慰めと励ましがありますようにと祈ります。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』9章1-41節
序.
今日の聖書箇所を読むたびに、私は自分の少年時代を思い出します。
教会では何度も語ってきましたが、私が中学生のとき、突然骨肉腫という病気にかかり、左足を切断しました。
そのときに、よせばいいのに、両親が占い師の所に行って私のことを聞いてきたのです。
するとその人いわく、「坊ちゃんの先祖にお侍がいて、町人の足を刀で切った。その報いが坊ちゃんに今起きているのです」。
父は、自分は無神論者だと常々言っていましたので笑いながら伝えましたが、隣の母親が動揺していたのはよくわかりました。
前世の報いだとか、因果応報だとかいうのは、日本人の中にびっしりとこびりついてるのは確かだろうと思います。
そして、まるでこの弟子たちの言葉も、まるで同じことを言っているかのようです。
イエスは道ばたで、生まれたときから目が見えない人が物ごいとして座り込んでいるのをご覧になられました。
そしてその視線に気づいた弟子たちは、イエスにこう尋ねました。
2節、「先生、彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」。
注意してほしいのですが、聖書には、前世だとか、生まれ変わりといった考え方はありません。
しかし人間のはるか先祖、アダムとエバが犯した罪が、脈々とその子孫であるすべての人に受け継がれている、ということは書いてあります。
当時のユダヤ人が陥っていた誤解、いや偏見が、弟子たちの質問には現れています。
それは、すべての人が罪をもって生まれてくるという原罪の教理を、とりわけハンディキャップを持つ人たちに当てはめてしまっていたことです。
後になって、パリサイ人たちは、弟子たちより露骨に、その偏見を直接この人に言い放っています。
「おまえはまったく罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか」と。
罪の中に生まれてきたのは、彼らパリサイ人も同じです。少なくとも、彼らが学んできた旧約聖書はそう教えていました。
1.
しかし、イエス・キリストははっきりとこう言われました。
「この人が罪を犯したのではなく、その両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」。
イエス様は、この人にもその両親にも罪がない、と言っているのではありません。
すべての人は、罪をもって生まれてくるのですから。
しかしすべての人が生まれながらに持っている罪を、とりわけからだに障がいを持っている人に押しつける考え方は、はっきりと否定されました。
確かに、神はこの人を生まれつき目の見えない者として、母の胎の中で組み立てられました。
しかしそれは、罪のゆえにでもないし、ましてや神さまの失敗作ということでもない。「神の栄光が現れるためです」と言われたのです。
そして今、神の子イエス・キリストがこの方の目をもう一度土からお作りになられました。ここに神の栄光が現れたのです。
この人は、生まれつき目の見えない人でしたが、まるで口もきけないかのように一声も発していません。
弟子たちのひどい言葉にも、イエス様が瞼に泥を塗った時も、シロアムの池へ行って洗いなさいと言われた時も、一言も話しません。
その後のパリサイ人との壮絶なやりとりから、彼が言葉を知らなかったということはあり得ません。
しかし彼は、長い長い物ごいの生活の中で、言葉を出して自分を表すということを捨ててしまっていたのでしょう。
しかし言葉は捨てても、聞く耳は捨ててはいませんでした。
「行って、シロアムの池へ行って洗いなさい」というそのことばを確かに聞き、そして実行したのです。
生まれつき目が見えないこの人にも、神は聞く耳を与えてくださいました。
生まれつき手足がないある人は、その歌声を通して、神を証ししています。
私たちもそうです。生まれつき与えられないものを嘆くのではなく、代わりに与えられたものに気づくことが大切です。
そしてそれを神様のために用いていくときに、私たちもまたイエス様と共に神の栄光を表すことができるのです。
2.
しかし神の栄光は、悩みも苦しみもない光り輝く道ではありません。
むしろ、最も地上で神の栄光が現されたのがイエスの十字架であったことを考えると、神の栄光に人があずかる道は、苦難が続く道です。
シロアムの池で、目が開かれたその瞬間から、この人の苦難がもう一度始まりました。
パリサイ人は、安息日に盲人の目を開いたのは、神が安息日に禁じた仕事にあたるといって、彼を責め立てました。
また彼の両親は、会堂から追い出されたらユダヤ人社会では生きていけないがゆえに、それ以上関わろうとはしませんでした。
このどちらも、肉の目は開いていても霊の目は開かれていない人々でした。
パリサイ人は自分たちの立場を守るために、盲人が見えるようになった喜びに対して、完全に目がふさがれています。
両親は、自分たちの生活を守るために、物ごいをしていた息子が立ち直ったという喜びに対して、やはり目がふさがれています。
しかしこのかつて盲人であった人だけは、肉の目が開かれたとともに、霊の目も開かれていたことを聖書は教えてくれます。
霊的に盲目な人の特徴は、変化を恐れるということです。
自分の立場が変わることを恐れます。昨日までの生活が変わることを恐れます。
変えないために、嘘をついて自分を守ろうとします。
嘘をついているという罪悪感から逃れるために、様々な理由をつけて嘘を正当化します。
変化を恐れるということは、手に入れることばかりは熱心だが、失うことはひたすら避けようとすることです。
パリサイ人も、彼の両親も、失うことを恐れていました。
しかしこの人は、すでに失っていたものを回復した人です。
失ったものを手に入れた人は、今手にしているものもいつかは失うことになることを知っています。
だから彼は恐れません。
聖書の中で、ここまでパリサイ人と正面からやり合った人を、私はイエスと使徒たち以外には見たことがありません。
3.
この人がパリサイ人とやり合っているとき、彼は自分を直してくれた人がイエスだと知りませんでした。
しかしイエスという名は知らなくても、彼はその方の弟子でした。
名前はわからないが、声はよく覚えている。神の栄光が現れるためです、と言っていた方。シロアムの池で洗いなさい、と言っていた方。
たとえ目が見えるようになったとしても、この方を知らないままで生きていくならば、人生に価値はない、と。
彼はユダヤ人の共同体社会から追放されることも覚悟のうえで、弟子としての道を貫きました。
しかし私たちが弟子として、神の栄光を表す生き方を選ぶならば、神は決してその人を見捨てることはないのです。
彼はその名も知らない、神の人を信じ、弟子としての道を選び取ることで、ユダヤ人社会からは追放されました。
しかしそのことを聞いたイエス・キリストは、彼を探し出して、イエス・キリストへの確かな信仰告白へと導いてくださいました。
私たちは、イエス・キリストを信じることで、それまで依存していた人間関係や、迷信に左右されている生活から解放されます。
しかしそれは、見方を変えれば追放されるということです。
変化を嫌う人々や、しがらみで動いている世界に、もしまだ居心地のよさを感じるのであれば、キリストを信じないほうがよいのです。
なぜならば、信仰生活とは、決して消えない勝利の冠をいただく代わりに、地上ではいばらをかぶりながら、嘲られながら生きる道だからです。
しかし信仰のゆえにこの世から追い出されても、まことの羊飼いイエス・キリストが、教会という牧場へと導いてくださいます。
パリサイ人は、神が命じていない安息日の教えを神の言葉と主張し、それに支えられた立場と権威を守るために、この人を追放しました。
彼の両親は、息子を守るよりも、今までの生活を守っていくために、パリサイ人との対決を避けて息子に回しました。
今日、多くの人々はいったい何を守っているのでしょうか。ある教会での話ですが、長年の求道者の方が、牧師にこう言いました。
「私はイエスを信じているけれど、クリスチャンになると仏壇を守れないので洗礼は受けません」。
すると牧師はこう答えたそうです。「私たちが神さまに守られているのであって、その逆ではありません。
あなたが守らなければ立ちゆかないものに、あなたは命をゆだねることができるのですか」。
ぜひ自分の心に、同じ問いかけをしていただきたいと願います。
本当に、このために命を使うことができたら本望だ、と思うものを探し出し、選び取ってください。
それが、この、かつての盲人にとっては自分の目を開いてくださった方、神の子であり人の子とも呼ばれる救い主、イエス・キリストです。
私たちも、この人と同じようにこの方を心から拝しましょう。