こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
きたる4/29、恒例の「豊栄流茶会」を新潟聖書学園バザーにて開催します。
「ブログを見て来ました」と受付で言うと、なんと!!一席200円が無料に!!(牧師のおごり) ただし教会員は除きます。
(ポスター、5MBとかなり重いです。クリックするときはご注意を)
週報はこちらです。
聖書箇所 『ルカの福音書』8章26-39節
序.
戦前に活躍し、わずか33才で亡くなった天才作家、中島敦の短い小説に、「山月記」というものがあります。
主人公は、若い頃からプライドの塊であった、あるエリートですが、彼は人と出世を争ったり、妬んだり、憎んだりすることを繰り返します。
やがて心の内側で押さえつけていた獣が、いつのまにか彼の外側にさえもあふれだし、彼を人食い虎に変えてしまうという物語です。
中島が伝えようとしたのは、一部のエリートではなく、すべての人間が、そのような獣を心の中に飼っているということでした。
私たちは理性や一般常識、社会道徳などによってそれを押さえつけて、何事もないように生きています。
しかし、イエス様の前に現れたこの人は、心が幾千の悪霊たちに支配されて、そのたががすべて外れてしまったのです。
そこには、自由はありません。ただ憎み、壊し、恨み、傷つけ、殺すというおぞましい感情に流されるだけの一日でした。
ここに出てくる、悪霊につかれた人というのは、決して現代の精神病のたぐいではありません。
たしかにある種の精神疾患は、重度のときに妄想や破壊衝動を伴うことがあります。
そのため、ある人々はこの悪霊につかれた人をその病気と一緒にしてしまい、本人や家族に対して二重の苦しみを与えることがあります。
しかし、この人の心から常に垂れ流されている強烈な破壊衝動は強引に精神疾患に結びつけてはなりません。
むしろ生まれつき罪人であるすべての人間が持っているものだと言えるでしょう。
1.
すべての人間は、罪あるものとして生まれてきます。
それを聖書では原罪と呼びます。神との正しい関係を失ったままで、生まれてくるということです。
神との関係が歪んでいるゆえに、他の人ともゆがんだ関係の中でしか生きていくことができません。
喜ぶべき時に妬んでしまいます。人の悲しみに最初だけは共感するふりができても、そのうち飽きてしまいます。
神でしか埋めることのできない穴が心の中に空いていますから、いつでもどこかに孤独とむなしさを抱えています。
墓場には住んでいなくても、まるで墓場のようなひとりぼっちの世界に生きています。
しかしイエス・キリストは、そのような人々を救うために、いや、そのような私を救うために、湖を渡ってこられるお方です。
ほとんどの人々は、このイエス・キリストが与えてくださる救いのすばらしさを知りません。
罪の支配からキリストの支配へと移ることが、どれだけの平安と喜びをもたらすのか、知ろうともしません。
かつての私も、そのとおりでした。墓場には住んでいません。服も着ています。鎖につながれてもいません。
しかし心の中には、レギオンならぬあらゆる感情がひしめいていました。多重人格という意味ではありません。
人の言葉が気になる。人に語った言葉が気になる。表向きには自由でありながら、決して自由ではない。
何かがいつも自分の心におしかかっていました。しかしそれをどのように解決していけば良いのかがわからない。お手上げの生活です。
2.
しかし私は気づかなかったけれども、イエス・キリストはその私を自由へと導くために、いつも私と共に歩んでくださっていたのです。
そして、あるときに私の心をみことばによってとらえてくださり、キリストにあってすべてが解放されたのだということをわからせてくださいました。
今日の箇所を見てわかるように、悪魔、悪霊の力は人間の力を遥かに越えたものです。
しかし彼らが、イエス・キリストの前には青ざめ、身震いします。遠くから走り寄り、滅ぼさないでくださいと額を地面にこすりつけます。
彼らは、人間よりもはるかに知っているのです。イエス・キリストの恐ろしさを。
いと高き神の子イエス・キリストが、言葉だけで、彼らを底知れぬ所にまで永遠に追いやることのできる方であることを。
悪霊でさえイエスの力を知っているのに、人間はこのお方の力を知ろうとしません。
「いと高き神の子」という、悪霊が語ったこの言葉が、新約聖書の中に何回出て来るか、皆さんは想像できますか。2回しか出てきません。
1回はもちろんこのルカ8章28節、そしてもう一回はマルコ5章7節、同じ物語が別の著者によって記されてるところです。
つまり、「いと高き神の子」と告白したのは、この悪霊だけなのです。
イエスの時代の人々は、最も近くにいた弟子たちでさえ、イエスがいと高き神の子であるという告白へと至らなかったのです。
その霊的盲目の最たるものが、このゲラサの人々であったと言えるでしょう。36、37節ではこう書いてあります。
「目撃者たちは、悪霊につかれていた人の救われた次第を、その人々に知らせた。
ゲラサ地方の民衆はみな、すっかりおびえてしまい、イエスに自分たちのところから離れていただきたいと願った。
そこで、イエスは舟に乗って帰られた」。
この悪霊につかれた人の姿は、ゲラサ地方で知らない人々はいなかったでしょう。
墓場で大声を上げながら鎖をひきちぎるような姿を、彼らはその目で実際に見ていたはずです。
その彼が、いまレギオンから解放され、人としての姿を取り戻したのに、彼らはそれを喜ぶよりも、イエスに出て行ってもらうことを願いました。
なぜでしょうか。豚二千匹を失ったからです。これ以上イエスにいてもらっては、一体どんな損失が起こるかわからない。
それが人々の心の現実でした。一人の人が悪霊から救われるのと、豚二千頭と、どちらが大切なのか。
しかし彼らにとっては、人一人のいのちよりは、二千頭の豚のほうが重かったのです。
結.
しかし私たちは違います。一人のたましいが救われることを、他の何よりも喜びます。
どんな犠牲も、痛みも、一人の人が救われるというその重みにまさることはありません。
そしてイエス・キリストが私の罪を赦し、救いを与えてくださる、いと高き神の子であると信じるならば、私たちも必ず救われるのです。
救われた人は、生き方が変わります。それまでは悪霊に支配されていたこの人は、イエスのお供をしたいと願いました。
しかしイエス様はこう言われました。「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」
イエス様のお供をすることもひとつの生き方であれば、自分の家族や友人、社会に神のみわざを伝えていくこともまた神に喜ばれる生き方です。
言うまでもなく、私たち救われたひとり一人が、イエス様から同じ言葉を与えられています。
「神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」と。
人の器が小さければ小さいほど、その器を通して語られる神のみわざの大きさはよく伝わります。
どんなに小さな者であっても、神が私に何をしてくださったか、喜んで語っていこうではありませんか。
故水木しげる画伯・・・と思いきや、そっくりなタッチの「ドリヤス工場」による山月記。
kindle版です。わたしKindle持っていませんが、読みたいなと思いました。
