こんにちは。豊栄キリスト教会牧師の近 伸之です。
今日の午後は、教会墓地で召天者記念会を行いました。
週報はこちらです。
聖書箇所 『ヨハネの福音書』5章1-18節
序.
何十年も前の話です。
新潟市内のある教会で、土・日にまたがる特別集会の講師として、ある有名な伝道者を招いたことがありました。
土曜日の昼前に、若い牧師が新潟駅まで迎えに行き、駅前の食堂で一緒に昼食をとりました。
集会は夜ですので、まだ時間がたくさんあります。そこで牧師はその講師におずおずと聞きました。
「先生、集会は夜ですし、まだホテルのチェックインまで時間があります。もしよろしかったら、市内の名所をご案内しますが・・・・」。
するとその講師はほほえみながら、こう答えました。
「お気遣いに感謝します。しかし私は新潟に観光に来たわけではありません。それよりも先生、いま入院中の方はおられませんか。
突然お伺いしても失礼でなければ、その方にも、今回与えられたみことばを語らせていただきたいと願います」。
青年牧師は、その講師の態度に非常に感銘を受けたそうです。
そして彼もまた、後に特別集会の講師に招かれるようになりましたが、いつも同じことを実践するようにしている、ということです。
さて、祭りで沸き立つエルサレムの都に上られたイエス様も、祭りを楽しむことを目的とはしておられませんでした。
イエス様が向かわれた先は、祭りの喜びなどまるで無縁な、どんよりとした重苦しい空気が漂う、ベテスダの池。
その水が動くときに一番に入れば、どんな病気もいやされるという噂を信じ、医者に見放された病人たちが集まっていたところでした。
先週学んだ、10人のツァラアトに冒された人のように、彼らは、病を持つ者同士、肩を寄せ合って生きていたのでしょうか。
いいえ、まったくの逆でした。そこはあたかも戦場のようなところだったのです。
1.
水面が動くといっても、いつ動くかなどわからない。何時間か、何日か、何ヶ月か。そして水が動いたとき、一番で入らなければ意味がない。
そしてたとえ水が動いたとしても、そこに繰り広げられるのは病人たちが押し合いへし合い、なりふり構わず、前にいる者を押しのけていく戦場。
しかしイエス様がエルサレムで足を運んだのは、そんなところでした。
そしてその人々の中で、「自分には入れてくれる人がいない」と、行動を起こす前にすでにあきらめている人の前に、立ってくださったのです。
ここで13節の言葉に注意してください。「人がおおぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られた」と書いてあります。
この言葉が意味しているところは、イエスはおおぜいがひしめくベテスダの池で、彼だけをいやし、そして立ち去られたということです。
だから私たちは、どれだけ後ろ向きの人生を歩んできたとしても、希望を失う必要はありません。
すべてにおいて後ろ向きな、この人を、イエス・キリストは、いやされるべき唯一の人として選んでくださったのです。
どうして彼を選んだのでしょうか。私たちにはわかりません。
しかしはっきりわかるのは、神は人が見るようには、私たちを見ることはないということです。
あなたは人にどう見られていると思いますか。人は、一緒にいて居心地のいい人を好むでしょう。前向きな人に魅力を感じるでしょう。
しかし神は、私たちがよい人間だから選んでくださるのではありません。
自分で自分を変えようとしても変えられないような、自分でもあきれ果てる人間だとしても、いや、むしろそのほうが神の目には尊いのです。
イエス様がそうでした。
病人仲間にも見捨てられている人、そして自分で自分には生きる価値がないとあきらめているような人を、真っ先に選んでくださったのです。
2.
この人は、この世の基準から見れば、いわゆる「人生の負け組」の一番下に陣取っている人でありましょう。
イエス様の「よくなりたいか」という質問にさえ、この人はまっすぐ答えることができません。
まわりをうらやむだけで、「他の人には助けてくれる人がいても、自分にはいない」と答えるのがやっとです。
しかし、すべてにおいて後ろ向きに見えるこの言葉が、じつは救いをいただくのに何よりも大切なことを教えてくれています。
それは、彼がイエス様の問いかけに「答えた」という事実です。
彼の心の状態からすれば、ここで一番選びがちな行動は、この失礼な男の質問など無視するということでした。
38年間、自分でもいやになるほど病をうらみ、まわりをうらやんできた彼にとって、「よくなりたいか」という質問は、ばかげたものです。
よくなりたくないはずがないじゃないか。そもそも、このベテスダの池に集まっている人で、よくなりたくない人間など、いるわけがいないではないか。
しかし彼は、自分の認めたくない姿をありのままに答えました。私のことを考えてくれる人は、だれもいないのです、と。
彼を入れてくれる家族もいない。友だちもいない。ほかに行き場がない。
しかし彼は自分が最も認めたくないところを認めることのできる人であった、ということ。
自分の認めたくない、弱さを認めることができるということは、神の国に入るためにどうしても必要なことです。
しかしもうひとつ、彼が救われるためにどうしても越えなければならないハードルがありました。
それは、自分にできるかどうかではなく、神のことばを信じ、従うということです。
池の中に自力で向かうことができない人に対して、「起きて、床をとって歩きなさい」というのは、絶対に無理な命令ではありませんか。
しかし、その「無理」に、彼はただ従ったのです。
彼はそれまでの人生のすべてにおいて、自分には助けてくれる人がいないから「無理」「無駄」と決めつけて、それをひたすら繰り返してきました。
しかし、たった一回、このイエス様の命令に対しては、無理を決めつけることなく、従ったのです。
信じるだけで救われるなんて無理。今まで何度も変えようとしてきた人生を変えるなんて、無理。
こうつぶやいて、いったいどれだけたくさんの人々が、永遠のいのちを手に入れる機会を逃してきたことでしょう。
しかし彼はイエスの言葉に従いました。救いを得るために必要なのは、服従です。ただ神のことばに従うとき、人生が変わるのです。
3.
しかしこの出来事を聞いた、長老やパリサイ人といった上の人たちは、神をほめたたえるどころか怒りに燃えました。なぜでしょうか。
彼らの言い分はこうです。床をたたんで歩くことは、仕事である。そして神はモーセに、安息日に仕事をしてはならないと命じられた。
だから安息日にこの人に床をたたんで歩かせた者は、神に公然と逆らう、とんでもない輩である、と。
あまりにも愚かな理屈ですが、彼らは自分たちの権威を強めるために、聖書にこのような拡大解釈を加えて、人々を支配していたのです。
このいやされた人はその後どうなったのでしょうか。
励まされるのは、その後、彼とイエス様が宮の中で再会したということです。宮とはエルサレムの神殿のことです。
彼が神殿にいたのはなぜでしょうか。私は、彼は神さまに感謝のいけにえをささげるために、神殿にいたのだと信じています。
そして彼を見つけたイエス様は、彼が罪を犯す人生から、感謝を表し続ける人生に留まり続けるために、彼を励ましてくださいました。
その後、彼は自分からユダヤ人たちの所に行き、イエス様に出会ったことを告げました。
しかしそれは密告ではありません。彼ははっきりと語ったのです。「自分を直してくれた方こそ、イエス・キリストだ」と。
黙っていれば、彼はユダヤ人たちからその後にらまれることはなかったでしょう。
しかし彼は、イエス様が38年間の苦しみから自分を解放してくれたことをはっきりと伝えたのです。
この地上のすべてのものはやがて消えていきます。しかし決してなくならないのは、イエス・キリストが与える永遠のいのちです。
私たちは教会でそれを受け取ったし、また今イエスを信じるならば、確かに受け取ることができます。
ひとり一人が、今日イエス様の救いをかみしめることができるように。
