恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「悲しむ者の幸い」(マタイ5:4)

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 みなさん、おはようございます。
 イエスさまが山の上で語られた説教の中の、最初のところには「幸いな人」について、八つのことが語られています。
今日はその二つ目、「悲しむ者の幸い」です。

 私たちの社会では、いつも明るく前向きでいることが素晴らしいとされ、悲しむことや涙を流すことは、できるだけ避けるべき「暗いもの」として遠ざけられがちです。
つらいことがあっても、人前では無理に笑顔を作って、自分の痛みを心の奥底にぎゅっと押し込んでいる方はいないでしょうか。
「泣くのは弱い証拠だ」と自分を責めてしまうこともあるかもしれません。
しかし、そんな傷だらけの私たちの心に、イエス様はどこまでも優しく、しかし私たちの常識をひっくり返す言葉を語りかけられます。
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

 今まさに深い悲しみや喪失感の中にいる人にとって、この言葉は冷たい矛盾のように聞こえるかもしれません。
しかし聖書が語る悲しみとは、不幸の終わりではなく、神様の温かい胸に飛び込み、本当の愛に触れるための大切な「扉」なのです。
今朝は、この悲しみの奥にある約束を、共に味わいましょう。

 イエス様がここで言われた「悲しむ」という言葉は、ギリシャ語の原文では「ペンセオー」という言葉が使われています。
これは、ちょっと落ち込んだり寂しくなったりする程度ではなく、愛する家族を失ったときのような、胸が引き裂かれるほどの深い嘆きの涙を指します。
当時のユダヤの人々は、ローマ帝国の過酷な支配に苦しめられ、自由も希望も奪われ、自分たちの力ではどうにもできない理不尽な現実の中で、まさにこの深い嘆きの涙を流していました。
「神様、なぜこんなに苦しいのですか」と叫んでいたのです。

 しかし、そんな彼らにイエス様は約束されました。「あなたは慰められるからです。」それは、一瞬で状況を変える魔法のような解決ではありません。
「慰められる」は未来形です。
「未来」、それは、目の前のことで精一杯である、いま悲しんでいる人々にとっては、面白くない言葉です。
私はいま、助けがほしいのだ。いま、慰めがほしいのだ。
いったい、今日を何回繰り返せば、明日を何回待ち望めば、私に慰めがやってくるのか。
ずいぶん昔に見たテレビドラマに、「救命病棟」というタイトルの医療ドラマがありました。
その中で、ある研修医が、ある重病を抱えた患者さんの家族に対して「必ず直りますよ」と言って励ますのですが、最初、静かにそれを聞いていた家族が、「そんな気休めは言わないでください」と言うのですね。
いま、自分の肩に背負いきれないほどの問題を抱えている人にとって、未来の慰めを語ることは、ありもしない希望を語るのと似ています。

 しかしイエス様が言われる、「慰められる」は、ただの未来ではありません。
「『神様があなたを抱きしめてくださる未来は、もう完全に決まっている。
だから、まだ涙が乾いていないその顔のままで、あなたは今すでに、誰よりも幸せなのだよ』という、胸がときめくような天上の喜びの大宣言なのです。

 夜の暗闇が深ければ深いほど、次に昇り来る朝日の光は、私たちの目を開けられないほどまばゆく輝きます。
神様の約束という光が未来から今に向かって差し込んでいるからこそ、悲しみのただ中でも、私たちは「私は神さまによって導かれているのだ」という、言葉にできない圧倒的な喜びに満たされることができるのです。

 その光は、神の恵みを通して、突然差し込んできます。
かつて、世界がアメリカとソ連、二つの大国によって動かされていたことは、私より年齢が上の方々は覚えているでしょう。
数年間、戦いを繰り広げているロシアとウクライナは、どちらもかつてのソ連の一部です。
最初は二週間で戦いが終わると言われていたこの戦争がなかなか決着がつかないのは、まさにかつてのソ連という国がいかに多くの兵器や技術をため込んでいたのかということを物語っています。
これから話すのは、そのソ連にいた一人の兵士の話です。

 彼は幼い頃から、国家のために命を捨てよ、と教えこまれ、人間らしい感情をすべて捨てる過酷な訓練を受けて育ちました。
自分の心に蓋をし、温かい家族の愛も知らず、笑うことも泣くことも禁じられる人生を歩みました。
それが祖国のためだと信じ続けて。
しかし1991年、彼の祖国、ソ連はあっけなく内部崩壊し、彼は祖国を守るという唯一の人生の目的を失いました。

 そんな中、彼は道ばたで一匹の小さな野良犬を見つけました。
自分と同じ境遇に思えて、家に連れてきて飼い始めることにしました。
しかし生きることさえ面倒になっていた彼ですから、犬を飼うなどもっと面倒なことが続けられるはずがありません。
すぐにいやになって、追い出してしまいました。
しかしそのかつての野良犬は、彼がどんなに冷たく接しても、翌朝になるとまた帰ってきて、しっぽを振って、彼を見上げたそうです。

 そんな生活を繰り返し続けて、数年が経ちました。
その犬は、かつての彼の祖国のように、突然、しかもあっけなく、なくなってしまいました。
トラックにひかれて、死んでしまったのです。
その犬の亡骸を見つめていたときに、彼は気がつくと、自分でも驚くほどの激しい震えと共に、熱い涙が彼の頬を伝い、ボロボロと溢れて止まらなくなっていました。
彼はその涙の中で、震えながら深く気づいたのです。
「自分は、まだ人間だった。
失うことを悲しみ、涙を流すことができる。
」そのときには彼は知りませんでしたが、さらに数年後に出会ったクリスチャンから、そのときの涙をこう言われました。
「それは、神様があなたに与えてくださった、最高の恵みなのかもしれませんね」と。

 悲しみとは、人生のマイナスや失敗ではありません。
私たちは自分の弱さや痛みを認め、涙を流すときにこそ、イエス様が差し出してくださる温かい手のひらに触れることができるのです。
涙を流すことを恐れないでください。
その悲しみの扉をくぐり抜けるとき、私たちは失ったものよりもはるかに大きな存在、すなわち「今も、これからも、永遠にあなたと共に泣いてくださるイエス様ご自身」を、一番近くで受け取るのです。

 悲しいときには泣いていい、弱いときには弱くていいのです。
そのあなたの涙を、主は『幸いだ、私はあなたのすぐ隣にいる』と力強く抱きしめてくださいます。
そして、この悲しみを通して神様の温もりを体験したあなただからこそ、同じように暗闇で泣いている誰かに、そっと寄り添うことができるのです。

 今週も、私たちを愛し、涙を拭ってくださる主の腕から出発し、それぞれの生活の場へと遣わされていきましょう。
お一人お一人の歩みに、言葉に尽くせない確かな希望と、あふれるほどの天の喜びが豊かに注がれますように。