恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「心の貧しい者の幸い」(マタイ5:3)

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 みなさん、おはようございます。
今週からシリーズ説教として、イエスさまが教えられた八つの祝福を一緒に見ていきたいと思います。
今日はその一つ目、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」。
有名な箇所ですので、今までも何度も語ってきたところですが、改めて味わっていきたいと願います。

 さて、現代は多くの人々が自分の弱さを周りに見せまいと生きている、と言えるでしょう。
すでに使い古された言葉ですが、「インスタ映え」なんていう言葉もありますね。
新種のハエではありません。
いかに楽しそうな毎日や成功した姿を人々に見せつけるか、たとえそれが見せかけであろうが、多くの人の注目を引くことが人生の目的になってしまっている人たちもいます。
そしてそういうものを見るたびに、人々は「もっと頑張って、自分を価値あるものに見せなければ」と自分を追い詰めていきます。
でも、たとえ見せかけでなく、努力によって手に入れた幸せであったとしても、それはまるで水面に映る月影のようなものです。
風が少し吹き、試練という小石が投げ込まれるだけで、簡単に揺らいで消えてしまいます。
本当の安心は、いったいどこにあるのでしょう。

 二千年前、イエス様のもとには多くの人々が安心を求めてやってきました。
彼らもまた、現代の人々と同じように、安心というものは、少し財産が欠けても動じないくらい、たくさんのものを所有することだと考えていました。
しかしイエス様が開口一番に語られたのは、彼ら、いや、私たちの常識をひっくり返すような、驚くべき言葉だったのです。
「心の貧しい者は幸いです。」

 「心が貧しい」と聞くと、私たちは「意地悪だ」とか「心が荒んでいる」というような悪口のように感じてしまいます。
しかし、イエス様がここで使われた言葉は、全く違う意味を持っていました。
ここで「貧しい」と訳される「プトーコス」というギリシャ語は、ただ暮らしが少し苦しいというレベルではありません。
今日生きるために、誰かにすがりついて物乞いをするしかない、それほどまでに「自分には何一つ持っていない」という絶対的な状態を指しています。

 確かに当時のイスラエルの人々は、大国の過酷な支配のもとで、明日の食べ物さえ保証されず、自分の力ではどうにもできない厳しい現実を生きていました。
でもここでイエスさまが言われているのは、その厳しい現実の中で、一生懸命働け、人の二倍働け、ということではありません。
「神様の前に、完全に空っぽの手を差し出しなさい」ということなのです。
「神様、私の手の中には、お見せできるような立派なものは何もありません。
でも、だからこそ、どうかあなたで満たしてください。
あなたなしでは、私は今日の一歩を踏み出すことすらできないのです」という、小さな子どものような全面的な信頼です。
この、自分の無力さを正直に認める姿勢こそが、「心の貧しさ」の本当の姿なのです。

 なぜ、自分の無力さを認める「空っぽな人」が、最高に幸せなのでしょうか。
それは、空っぽの器にこそ、神様の恵みが満たされるからです。
私たちの心を、一つのコップに例えてみましょう。
もしその中に、「自分は頑張っている」「自分の力で解決できる」という自己満足の水が一杯に詰まっていたら、せっかく神様が注いでくださる「天の御国」という最高の恵みを受け取るスペースがありません。
私たちが自分のコップを一度空っぽにするとき、初めてそこへ神様の愛と支配が注ぎ込まれるのです。

 私が子どもの頃、こんなコマーシャルがありました。
ある若奥さんが、フランスパンとか色鮮やかな野菜、フルーツなど、たくさん食材が詰め込まれた紙袋を両手に抱えて道を歩いています。
その当時はフランスパンを買っているだけでちょっとリッチと思われる時代だったのですね。昭和の後半です。
すると女性の足元にサッカーボールが転がってきます。
そこでその女性が紙袋を両手に抱えたまま、そのサッカーボールを蹴り返すと、ボールは大空を駆けて、サッカー少年たちのところにうまい具合に返っていく。
笑顔の女性をアップにして、コマーシャルは終了。銀行か、保険会社のCMだったと思います。
こういうのが当時の「幸せで穏やかな生活」のイメージであったのでしょう。

 しかし私たちが両手に物を抱えたままでは、じつは平安も幸せも決して訪れません。
私たちが「神様、私には何もありません」と自分の心を低くして空っぽにするとき、そこへ神様ご自身の温かい支配である「天の御国」が流れ込んできます。
この幸いは、お金があるから、健康だから、というような外側の条件には左右されません。
神様が私たちの心の内側を直接満たしてくださるからこそ、外側でどんな問題の嵐が吹き荒れようとも、決して奪われることのない本当の安心が生まれるのです。

 とても寒い朝、ある人の家のベランダに、一羽の小さなスズメが迷い込んできたそうです。
そのスズメは凍える寒さの中で今にも命の灯火が消えそうになっていて、迷い込んだというよりは墜落してきたといったほうが正しいでしょう。
このスズメを見つけた住人は、スズメを驚かせないようにベランダの窓をそっと開け、そおっと両手で包み込んで、自分の体温で温めながら部屋へと招き入れました。
そして、手のひらの上でじっくりと温めながら、少しずつ水とエサを含ませてあげたそうです。

 もしそのスズメが、残った最後のプライドをふりしぼって「自分の力で逃げてみせる」と暴れ回っていたら、温もりを受け取れずに凍え死んでいたかもしれません。
私たちの信仰も同じではないでしょうか。
家庭や職場の問題、自分自身の弱さに直面した時、私たちはつい自分を立派に見せようと繕って、自力で解決しようと空回りしてしまいます。
しかし神様が待っておられるのは、余計なプライドを捨てて、あの小さなスズメのように、ただ力を抜いて、神様の温かい手のひらに自分をゆだねることなのです。

 メッセージの結論に入りましょう。
心の貧しい者、それは神様の前に「空っぽの手」を広げて、ただ主の恵みを見上げる人のことです。
自分がどんなに欠けだらけで、弱い者であるかを認めるとき、あなたの内側には、外側のどんな問題にも揺るがされない「天の御国」が始まります。
そして、この幸いは、ただ自分の心が満たされて終わりではありません。
私たちが主の愛で満たされるとき、その恵みは心の内側から、必ず周りの大切な人々へと溢れ流れていきます。
自力で頑張ることに疲れ果てているこの社会へ向かって、私たちは「何も持っていなくても、神様の恵みだけでこれほど幸せになれるんだ」という喜びを、自らの生き方を通して伝えるために遣わされていくのです。
それこそが、世界を本気で変える最も力強い福音の証しです。

 自分の力で生きようとする肩の力をあえて抜いてみましょう。
神様の前に空っぽになる、それが心の貧しい人です。
しかし世の人々にとってはなかなか理解されないことでしょう。
ですから私たち自身が、だいじょうぶだよ、神様にゆだねる生き方の中に、本当の喜びと平安があるんだよ、と飾らない自分の生き方を通して伝えていけたら幸いです。
これからの一週間、主の温かい手のひらに包まれる、本当の幸いをかみしめながら、歩んでいきましょう。