恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「弱さの中でただ主を信ぜよ」(創世12:1-3)

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 みなさん、おはようございます。

 みなさんは『信仰の父』と聞くと、どのような人物を想像されるでしょうか。
 決して揺らぐことのない、スーパーマンのような強さを思い浮かべるかもしれません。
しかし聖書の中で「信仰の父」と呼ばれるアブラムは、迷い、立ち止まり、家族のしがらみに悩む、私たちと同じ弱い人間でした。
 このとき、アブラムは「カラン」という町に住んでいました。
アブラムの心の中には、新しい地へ向かいなさいという神様の招きがすでに届いていました。
しかし、彼はその声にすぐには応えることができず、このカランの町で足踏みをする日々を送っていたのです。

 何がアブラムの足を止めてしまったのでしょうか。
それは、彼が背負っていた重い現実でした。
愛する妻サライは不妊という、当時の社会において非常に辛く深い痛みを抱えていました。
また、年老いた父テラの存在や親戚関係など、彼を縛り付ける複雑な家族の事情がありました。
当時の世界において、親族の守りから離れて未知の土地へ旅立つことは、命の危険を伴う大きな決断だったのです。

 アブラムは、神様の声に従いたいと心から願っていました。
しかし、目の前の家族のことや生活の安定、先が見えない不安を気にしすぎるあまり、どうしても一歩を踏み出せずにいたのです。
神様の招きを感じつつも、現実のしがらみに引きずられて立ち止まってしまう。
このアブラムの不完全で弱い姿は、現代を生きる私たちの葛藤と、痛いほど重なるのではないでしょうか。

 そんなふうに足踏みをして、なかなか前に進めないアブラムに対して、神様は再び力強く語りかけられました。
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」。
この神様の言葉には、驚くべき恵みが溢れています。
神様は「あなたが立派な信仰者になったから」とか、「生活が完全に清められたから」招いたのではありません。
中途半端なまま立ち止まっているアブラムを、見捨てることなく、もう一度招いておられるのです。

 しかし私たちの信仰生活でもそうですが、神様の招きは、詳しい行き先の地図を渡してくれるようなものではありません。
「わたしが示す地」とだけ言われ、それがどこなのか、どんな安全が保障されているのか、具体的なことは何一つ知らされません。
それでも神様は、一つの確かな約束を与えてくださいます。
「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」という壮大な約束です。
ここに私たちは、ひたすら神の約束を信じること、それが信仰なのだということを学ぶのです。
聖書が教える信仰とは、私たちが神様に何かを誓うことではなく、「神様が私にしてくださった約束を信じ受け入れること」なのです。
アブラムは、自分の弱さや現実の厳しさを痛いほど知っていましたが、ただ一つ、この神様の真実な約束だけを握りしめたのです。

 19世紀、中国の奥地への伝道に一生を捧げた、ハドソン・テーラーという宣教師がいました。
彼は何百人もの宣教師を導き、何千人もの人々に福音を伝えた「信仰の巨人」として知られています。
しかし、ある時、彼は極度の重圧と疲労から、心身ともに崩れ落ち、深い暗闇のような神経衰弱に陥ってしまいました。
もはや立ち上がる気力すら失った時、彼は友人に宛ててこう手紙を書きました。

「私にはもう、祈る力も、信じる力さえも残っていません。
しかし、ただ一つだけ確かなことがあります。
それは、神様が真実な方であるということです。
私は今、ただ、その神様の真実に寄りかかっているだけなのです」。

 みなさん、どうでしょうか。
あの偉大な宣教師でさえ、自らの弱さに完全に打ちのめされ、ただ神の約束にすがるしかなかった時があったのです。
アブラムもまた同じでした。
彼は完璧だったから歩み出せたのではありません。
弱さを抱えたまま、ただ神様の約束という杖に身を委ねたのです。

 神様は、私たちの弱さを誰よりも深くご存知です。
たとえ失敗だらけの人生であっても、神様は決して私たちを見捨てることはありません。
私たちが何度つまずき、倒れてしまったとしても、悔い改めて神様の元へ戻るなら、神様は必ず御手を差し伸べ、再び立ち上がらせてくださいます。

 アブラムがカランから踏み出したその小さな、しかし勇気ある一歩は、数千年の時を経てイエス・キリストの誕生へと繋がり、この世界中のすべての人を救うという、大いなる祝福へと結実しました。
同じように、私たちが今日踏み出す一歩もまた、決して無駄にはなりません。
私たちが自分の弱さを認めながらも、神様を信頼して生きるその姿を通して、また、私たちが隣人に向けて語る不器用な愛の言葉を通して、神様は必ず誰かの心に福音の光を届けてくださるのです。

 あなたが今日抱えている不安も、痛みも、すべて神様の御手の中にあります。
どうか、自分の強さや完全さに頼るのではなく、ただ神様の真実を信じてください。
弱くても大丈夫です。
神様があなたを強くし、あなたを周囲の人々への「祝福そのもの」として用いてくださるからです。
この新しい一週間、神様の約束という確かな杖にすがりながら、私たちが受けたこの恵みを人々と分かち合うために、一歩歩み出しましょう。