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みなさん、おはようございます。
ふだんあまり意識しないことですが、道ばたにある歩行者用の信号機を思い浮かべてみてください。
じつはあの信号機の仕様は法律で決められていて、縦型の歩行者用信号機の場合、必ず赤・止まれが上に来なければなりません。
なお豪雪地帯では横型の歩行者用信号機というのもありまして、そちらのほうややはり法律で、赤が右、青が左に来なければなりません。
つまり、歩行者用信号機では、「待て」を一番目立つ、上または右にしなければならないのです。
どんなに先を急ぎたくても、まずは「待つ」ことができなければ、取り返しのつかない事故につながってしまいます。
今日私たちが開いた「使徒の働き」の冒頭で、イエス・キリストは、『世界へ福音を伝えよ』という壮大なミッションの第一歩として、まさにこの信号機と同じような命令を弟子たちに与えられました。
「エルサレムを離れないで、約束の聖霊が与えられるのを待ちなさい」というのです。
これから世界へ向かって福音を宣べ伝えていくべき弟子たちに対して、主が与えられた一番上の命令は「進め」ではなく「待て」でした。
私たちの日常において、「待つ」ことは時に苦痛を伴います。
無駄な時間を過ごしているように思えるからです。
しかし、神様が命じる「待つ」という時間は、決して消極的な現状維持や怠惰な時間ではありません。
赤信号が私たちの命を守るように、それは私たちが自分自身の知恵や力で暴走するのを止め、神の力で満たされるための神聖な準備期間なのです。
本日は、この「待つ」期間に弟子たちが何に直面し、何を大切にしていたのかをご一緒に味わいたいと思います。
15節をご覧下さい。
「そのころ、百二十名ほどの人々が一つになって集まっていたが、ペテロがこれらの兄弟たちの中に立って」語り始めたと記されています。
しかしペテロの口から出てきた言葉は、恵みと励ましの呼びかけではありませんでした。
兄弟たちが忘れようにも忘れられない、十二弟子のひとりであるイスカリオテのユダの悲惨な死です。
ペテロは16節から19節にかけて、ユダがどのような最期を遂げたのかを赤裸々に語ります。
寝食を共にし、家族のように愛し合ったはずの十二人の一人が裏切り、悲惨な最期を遂げた。
これは初期の教会にとって、単なる人数の減少ではなく、心を引き裂かれるような『痛ましい欠け』でした。
深い喪失感と、「なぜあんなことになってしまったのか」という後悔や疑念が、百二十名の群れの中に渦巻いていてもおかしくありません。
しかしだからこそ、イエスさまは将来リーダーとして立つペテロに、過酷な経験を味わわせていたのだということがここでわかります。
教会の中に深い喪失、後悔、疑念、あらゆるものが渦巻いていたからこそ、かつて主を三度否み、しかし神の御手に取り扱われてそこから回復したペテロの経験が生かされていくのです。
彼はこの絶望的な現実に対して、旧約聖書のみことばの光を当てます。16節をもう一度見てみましょう。
「聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした」と彼は宣言します。
ペテロは、人間の目には最悪の失敗としか思えない出来事すらも、神は千年も前から、いや、永遠の昔から、ご自分のご計画の中に定めておられたことを兄弟たちに気づかせました。
ただ状況が変わるのを漫然と待つのではなく、みことばを開き、絶望的な現実の中に神の真実なご計画を読み取ること。
それが彼らの積極的な「待つ」姿勢でした。
みことばによって現実を受け止めた彼らは、次に具体的な行動に出ます。
それが本日の箇所の中心テーマである「十二使徒の欠員補充」です。
ペテロは20節で詩篇を引用し、「彼の務めは、ほかの人が取るように」と、代わりの使徒を選ぶことを提案します。
なぜ十一人のままではいけなかったのでしょうか。
イエス様がご自身で選ばれ、定めてくださった「十二」という愛の共同体は、ユダの裏切りによって破綻しました。
それはユダ個人の罪であると同時に、誰が一番偉いかと争い、ユダの孤独や心の闇に気づけなかった彼ら自身のいびつな交わりの結果でもありました。
ですから、この欠員補充とは単なる人数の穴埋めではありません。
それは、自分たち自身の罪深さと不完全さを主の前に告白し、失われた真の交わりを回復するための、涙ぐましい『悔い改めの実行』だったのです。
私たちはいま、新しい会堂が生まれた喜びに溢れています。
まだ未完成のものを少しずつ整えていくという楽しみもついてきました。
しかし一方で、喜ぶ時には喜び、静まる時には静まるというメリハリが必要です。
この数年間、あるいはそれ以上の期間、自分の心や生活の中に、ユダの喪失のような「痛ましい欠け」を経験してきたかもしれません。
弟子たちは、自分たちの中にユダの裏切りを生んでしまったことを振り返りながら、再び中心の十二人、つまりイエスが選んでくださった聖徒の交わりの象徴的数字、十二を取り戻すために、最初からイエスに従ってきた弟子たちの中からくじで欠員を補充しました。
その時にも彼らは『すべての人の心を知っておられる主よ。
あなたがどちらをお選びになったか、お示しください』と真剣に祈りました。
いま何をすべきかを心を尽くして考え、それを実行に移すが、結果は神の絶対的な主権にゆだねたのです。
もしかしたら私たちは今、新しい会堂が生まれた中で「早く結果を出さなければ」という焦り、あるいは神がすぐに結果を出してくれるという期待を持っているかもしれません。
しかしそれはいったん手放さなければなりません。
私たちが自分の力で何とかしようとする手を止め、心を合わせて祈り、主の主権に完全に委ねて「待つ」とき、主ご自身が私たちの破れを御手によって縫い合わせ、以前よりも神の恵みが輝く、新しい器として回復してくださいます。
みことばの約束に立ち返り、主がそれを最善の形で満たしてくださることを待ち望むのです。
真に『待つ』ことを知り、自らの欠けを主に委ねた群れは、必ず外へと向かう力強い宣教の器へと変えられます。
その神の力が私たちを満たすとき、主は私たちの歩みの上に『待て』の赤信号から『進め』の青信号へと切り替えてくださいます。
その時、私たちはもはや留まっていることはできず、押し出されるようにして隣人へキリストの愛を語り始めるのです。
さあ、私たちの欠けだらけの器を主の前に差し出し、共に祈りましょう。
そして、主の力に満たされて、この一週間、力強いキリストの証人としてそれぞれの場へと遣わされていこうではありませんか。
主の豊かな恵みと祝福が、皆様の歩みの上に豊かにありますようにお祈りいたします。