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みなさん、おはようございます。
今日はペンテコステ、聖霊がキリストの弟子たちに与えられたことを記念する日です。
私たちも、信じたときに聖霊を与えられました。
というよりもむしろ逆で、聖霊を受けたからこそ、信じることができたのです。
私たちはもともと、福音を信じることができるようなやわらかい心ではありません。
見えるものしか信じない、というかたくなな心の持ち主でした。
しかしその私たちを、なぜ神は救いに選んでくださったのでしょうか。
その答えが、1節のところに記されています。
「テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました」。
ここで「前の書」と呼ばれているのは、同じルカが記した福音書のことです。
福音書には、神の御子イエスが貧しい人々に寄り添い、十字架にかかって私たちの罪を身代わりとして背負い、そして三日目によみがえられた生涯が描かれています。
しかしルカは、その十字架と復活という偉大なみわざすらも、キリストが『始められた』ことにすぎないと語るのです。
キリストの地上での歩みは十字架と復活で一つの頂点に達しましたが、神の救いのご計画はそこで「終わった」のではなく、むしろそこから「始まった」のです。
しかし、いわば仕事の途中で、イエスは天に昇っていかれました。
それは、ご自分の仕事を引き継いでくれる者たちがいたからです。
じつはそれこそが、私たちが救われた理由です。
二千年前のペンテコステの日に聖霊を注がれ、「キリストのからだ」として生み出された教会であり、今も聖霊によって生きる私たち一人ひとりなのです。
当時の弟子たちはこの壮大な計画を理解できず、イスラエルがローマ帝国から独立するという、目に見える分かりやすい結果ばかりを期待していました。
それは、日々の生活の中で『すぐに目に見える解決』ばかりを求めてしまう、私たち自身の姿と重なるかもしれません。
しかしイエスは「エルサレムを離れないで、父の約束された聖霊を待ちなさい」と命じます。
人間の力や血気盛んな情熱だけでは、この神の国の働きは引き継げません。
私たちのかたくなな心を打ち砕き、真の変革をもたらす聖霊の力によらなければ、誰もキリストの続きを生きることはできないのです。
イエス・キリストは弟子たちに約束されました。8節をご覧ください。
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」。
「聖霊が臨む」と聞くと、私たちはつい、天から炎が降り注ぎ、外国語で語り出すといった、劇的な奇跡ばかりを連想してしまうかもしれません。
しかし、聖霊が与えてくださる最も本質的な力とは、「キリストの証人となる力」です。
証人とは、自分の正しさを巧みに主張する弁論家や、無理に相手を説得しようとする人ではありません。
自分が実際に見て、触れて、味わったキリストの愛を、ありのままに指し示す人のことです。
聖霊が私たちを通して働かれるとき、証しとは決して雄弁な言葉だけに頼るものではないのです。
私たちがキリストのからだである教会に連なり、自ら体験した神の愛に深く留まって生きるとき、私たちの言葉を超えた「生き方そのもの」が、もっとも力強い証しとなっていきます。
ここで、そのことを鮮やかに示している、歴史の中に刻まれた一つの実話をご紹介したいと思います。
19世紀の終わり、イギリスの野心的なジャーナリストであったヘンリー・スタンレーは、特ダネを狙ってアフリカの奥地へと足を踏み入れました。
彼の目的は、消息を絶っていた有名な探検家であり宣教医師である、デビッド・リビングストンを発見することでした。
当時のスタンレーは、聖書など信じない、冷笑的で野心に満ちた男でした。
過酷なジャングルの旅の末、彼はついに、物資が尽き果て重病に倒れていた老宣教師リビングストンを発見します。
スタンレーは彼を救出し、その後数ヶ月間、彼と寝食を共にしました。
やがてスタンレー自身もマラリアの高熱に倒れてしまいます。
その朦朧とする意識の中で彼が見たのは、自らも満身創痍でありながら、現地の人々のために薬を配り、彼らの痛みに寄り添い、そしてテントの片隅で人知れず静かにひざまずいて祈りを捧げる一人の老人の後ろ姿でした。
スタンレーは後に、自らの回心についてこう語っています。
「リビングストン博士は、私に向かって一言の説教もしなかった。
ただの一度も『信じなさい』とは言わなかった。
しかし、ただ彼と共に生活し、その姿を見ているだけで・・・・私は完全に、キリスト者にさせられてしまったのだ」。
これこそが、御霊に満たされた歩みです。
私たちは「伝道しなければ」と、自分の言葉や力で相手を説得しようと焦り、疲れてしまうことがあります。
しかし、聖霊のバプテスマとは、私たちが必死に頑張るためのエネルギー補給ではありません。
私たちが自分の弱さを認め、ただキリストの十字架の愛に留まり続けるとき、私たちの存在そのものから、隠しきれないキリストの香りが放たれていく。
それこそが、人の魂を根底から揺さぶる、聖霊の真の力なのです。
今日、私たちはそれぞれの「エルサレム」へと遣わされていきます。
それは、アフリカの奥地のような遠い場所ではないかもしれません。
毎日の職場のデスク、学校の教室、あるいは、人間関係で行き詰まっている、あの痛みを伴う家庭の食卓かもしれません。
しかし、恐れることはありません。
あなたのために命を捨てられたイエスが始められた愛の物語の続きを、今日、あなたが生きるのです。
立派な言葉を語れなくても大丈夫です。
あなたが置かれたその場所で、愛する者のために誠実に生きようともがく時、その不完全な歩みのただ中に聖霊の風が吹き抜け、必ず誰かの魂にキリストの福音が届いていきます。
この一週間、復活の主があなたと共に歩んでくださることを信じ、御霊の豊かな導きに委ねて、希望をもって歩み出していきましょう。