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みなさん、おはようございます。本日は復活節、イースターです。
教会に初めて足を運んでくださった皆様も、心から歓迎いたします。
イースターは、十字架にかかったイエス・キリストが死を打ち破って復活されたことを祝う、希望の祭典です。
ちょうど今は4月の初め、学校や職場などで新しい年度がスタートする時期と重なっています。
新しい環境の中で期待に胸を膨らませる一方で、慣れない人間関係や新しい役割への緊張から、知らず知らずのうちに肩に力が入り、一日の終わりにはどっと疲れを感じてしまう方も多いのではないでしょうか。
人生の歩みの中で、私たちは時として、足取りが鉛のように重く感じられることがあります。
例えば、大きなプレッシャーのかかる仕事を終えて帰る夕暮れ時や、思い通りにいかない現実を抱えながら家路につく時の、あのなんとも言えない重い足取りです。
それは単なる日常の疲れだけでなく、愛する家族のこと、子どもたちの将来、あるいはこれからの生活や新しく始まる物事に対する漠然とした不安など、目に見えない重荷を背負うこともあります。
それらを抱えながら歩く道は、見慣れた景色も色あせ、目的地が果てしなく遠く感じられるものです。
今日読まれたルカによる福音書24章には、エルサレムからエマオという村へ向かう二人の弟子たちが描かれています。60スタディオンの道のりはキロメートルに直すと約2キロ、歩いて二時間ばかりの距離です。
しかし彼らの心は深い絶望に覆われていました。
「この人こそ世界を救ってくれる」と希望をかけていたイエス様が、十字架で処刑されてしまったからです。
聖書には、彼らが道中「話し合い、論じ合っていた」とあります。
実は人間というものは、自分の中に大きすぎる絶望や不安がある時、その痛みに真っ直ぐ向き合うことができず、理屈や議論に逃げ込んでごまかそうとする弱さを持っています。
私たちの日常でも同じようなことがないでしょうか。
家族の将来のことや、本当に向き合うべき深い悩みがある時ほど、不安で胸がいっぱいになり、あえて核心には触れず、些細なことでムキになって言い争ってしまうことがあります。
それは、本当の不安から目を背けたいという、人間の切実な防衛本能なのです。
弟子たちも同じでした。
「仲間が復活を見たと言っていた」「いや、そんなはずはない」。
彼らは水かけ論のような議論を続けることで、イエス様を失った本当の悲しみや、「もし本当に復活していたら」という大きすぎる希望に直面することから逃げていたのです。
自分の弱さを直視するのは、誰にとっても怖いことだからです。
そこに、一人の見知らぬ旅人が近づいてきて、共に歩き始めます。
復活されたイエス様ご自身でした。
しかし、二人はそれに気づきません。
自分の不安や目の前の議論で頭がいっぱいだと、すぐそばにある救いの光すら見えなくなってしまいます。
それでもイエス様は彼らを論破したり、急かしたりはしませんでした。
「何をそんなに議論しているのか」と静かに問いかけ、彼らの強がりも、その奥にある悲痛な思いも、すべて聞き尽くしてくださいました。
そして、頑なになった心を解きほぐすように、優しく語りかけられたのです。
宿に到着し、共に食卓に着いた時、驚くべきことが起こります。
本来であれば客人として招かれたはずの旅人が、まるでその家の主人のようにパンを取り、感謝の祈りを捧げ、そのパンを裂いて二人に渡したのです。
その瞬間、彼らの目はハッと開かれ、それが復活したイエス様であることに気づきました。
「パンを裂いて分け与える」。
それは、生前のイエス様がいつもしてくださった、ご自分のいのちと愛を人々と分かち合う姿そのものだったからです。
先ほど、私たちはこの礼拝の中で「聖餐式」を行い、小さなパンとぶどう液を分け合いました。
今日初めて教会に来られた方には、少し不思議な光景に見えたかもしれません。
しかし、キリスト教会が二千年もの間、代々この食卓を守り続けてきたのは、決して単なる古いしきたりや、形式的な儀式を継承するためではありません。
それは「いのちの継承」なのです。
キリストから永遠のいのちを与えられた者が、同じキリストを仲立ちとして、隣の者たちへバトンをつないでいく、それが聖餐です。
同じパンとぶどう酒をいただきながら、「神様はあなたを愛し、あなたの人生とともにおられる」という、目に見えない命の温もりを手渡していく行為です。
そこに私たちは、子どもたちや親、兄弟、大切な友人がそこに加わってくださることを願いながら、信仰を伝え続けています。
それは「あなたは決して一人ではない」という絶対的な安心感を手渡すことに他なりません。
しかしイエス様だと気づいた瞬間、そのお姿は見えなくなりました。
それはイエスさまがいなくなってしまったのではありません。
見えなくなったのです。
いいえ、もはや目に見える姿に頼る必要がないと、イエスさまに認められたのです。
いのちをわかち合うこの食卓の交わりの中に、目には見えなくても神様が確実に一緒にいてくださる。
彼らはその確信へと引き上げられたのです。
『目に見えない確信が与える安心感』とはどのようなものでしょうか。
ここで、第二次世界大戦後のヨーロッパであった、ある実話をご紹介したいと思います。
戦火を生き延びた孤児たちが施設に保護されました。
彼らには十分な食事と温かいベッドが与えられたのですが、夜になると多くの子どもたちが不安で泣き叫び、眠ることができませんでした。
「明日になったら、もう食べるものがないのではないか」という恐怖が消えなかったのです。
そこで、ある賢明な職員が、夜眠る前の子どもたちの手に、一切れのパンを握らせるようにしました。
すると驚くべきことに、子どもたちはそのパンを小さな手でしっかりと握りしめたまま、安心してぐっすりと眠るようになったのです。
「明日も命をつなぐパンがある」。
その確かな保証が、彼らに深い安息を与えました。
私たちもまた、家族の将来や、新しく始まる物事に対して、先が見えず不安な夜を過ごすことがあります。
しかし、神様は今日、この教会の集いを通して、安心という名の「命のパン」を私たちの手に握らせてくださいます。
「私が共にいる。明日も私が守るから安心しなさい」と。
この安心感を得たとき、「こうしなければならない」という義務感や重圧は消え去り、内側から喜びが溢れ出してくるのです。
手の中にある確かな希望を得た二人の弟子たちは、すぐさま立ち上がり、夜の暗い道をエルサレムへと引き返しました。
もはや彼らの足取りは、逃げ出す時のように重くはありません。
同じ11キロの道のりが、今度は「希望は生きていた!」という喜びを伝えるための、軽やかな行進へと変わったのです。
これから新しく始まる生活や、私たちの新しい教会堂での歩みの中にあっても、神様は常に豊かな食卓を備えて待っておられます。
私たちはただ、その恵みの席に招かれ、安心を受け取り、喜びに満たされて歩み出すだけでよいのです。
あの孤児院の子どもたちが、パンを握りしめて深い安心を得たように、神様の深い愛と伴走に触れた私たちの心から、「神様、ありがとう」と自然にこぼれ落ちる、自発的な喜びのしるしなのです。
今日、イースターのこの日に、新たな希望と力をお一人お一人が豊かに受け取られますように。
皆様の新しい一週間の歩みの上に神様の平安と守りが豊かにありますように。
それでは、お祈りをいたします。