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みなさん、おはようございます。四旬節第6週、いよいよ受難週となりました。
この約一ヶ月半、日曜日の礼拝説教では、キリストが十字架へと向かっていく苦しみの道を少しずつたどってきました。
しかしその一方で、私たち一人一人もまた、自分の持てる時間や体力、あるいは大切な財産を削って、注ぎ込んできたと思います。
愛する家族のために日々奮闘し、あるいは、大きな目標に向けて皆で力を合わせ、自分の生活を犠牲にしてでも献身しています。
しかし、ふと立ち止まった夜、「自分の手元には何も残らないのではないか」「この苦労は本当に報われるのだろうか」と、先細りしていくような不安や疲労感に襲われることはないでしょうか。
自分の持っているものがどんどん奪われ、空っぽになっていくような感覚は、私たちの心から余裕を奪い去ります。
今日お読みしたルカの福音書23章は、まさにすべてを奪われ、極限まで空っぽにされたお方の姿を描いています。
着ていた服も、尊厳も、自由も、そして最後には命さえも奪われていく十字架の上のイエス様です。
しかし驚くべきことに、すべてを失っていくその極限状態の中で、イエス様は決して奪われることのない「究極の豊かさ」を私たちに差し出されました。
受難週とイースターを目前に控えた今日、十字架上のイエス様の言葉から、私たちの魂を永遠に潤す「徹底的な赦し」と「救いの約束」についてご一緒に聴き取ってまいりましょう。
舞台は「どくろ」と呼ばれるゴルゴタの丘です。
十字架刑は、当時のローマ帝国において最も残酷で恥辱に満ちた処刑方法でした。
手足に釘を打ち込まれ、炎天下で呼吸困難に陥りながら、ゆっくりと命を落としていくのです。
イエス様の周りには、冷酷なローマ兵士たちと、嘲笑を浴びせる指導者たちがいました。
「他人を救ったのだから、自分も救ってみろ」。
彼らは、救い主であるなら「力」や「奇跡」という目に見える見返りを示せ、と要求したのです。
さらに、イエス様の右と左には、二人の強盗が十字架につけられていました。
一人の強盗は群衆と同調し、「お前はキリストだろう。
自分と俺たちを救ってみろ」と罵りました。
彼もまた、自分の苦痛を取り除くという「利益」だけを求めていたのです。
しかし、もう一人の強盗は違いました。
彼は自分の罪の現実を深く悟り、隣で十字架にかかっている無実のイエス様こそが、まことの王であることに気づきます。
彼は目に見える奇跡や肉体の解放ではなく、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、ただ自分の魂の救いだけを静かに、そして切実に求めたのです。
この凄惨な十字架の上で、イエス様は人類の歴史を揺るがす第一声を放ちます。
「父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです。
」自分に釘を打ち込む者たち、嘲る者たちのために、イエス様はとりなしの祈りを捧げられました。
私たちは普段、誰かに何かをしてもらった「見返り」として感謝し、相手が謝罪した「条件」として赦しを与えます。
しかし、神の赦しは違います。
私たちがまだ罪人であり、神に背を向けているその時に、神の一方的な恵みとして、キリストの血の代価によって完全な赦しが与えられたのです。
そして、悔い改めた強盗に対し、イエス様は「あなたはきょう、わたしと共にパラダイスにいる」と宣言されました。
この強盗は、十字架に手足を釘付けにされ、もはや教会に通うことも、献金することも、良い行いで過去を償うことも、何一つ「奉仕」することができませんでした。
彼の手は完全に空っぽでした。
しかし、イエス様はその空っぽの手の中に、「パラダイス(天国)」という永遠の命の約束を無代価で置かれました。
救いとは、私たちがどれだけ労苦を支払い、どれだけ立派な犠牲を捧げたかによって獲得するものではありません。
ただ、十字架の主を見上げる時に与えられる、圧倒的な神の恵みなのです。
この「支払う能力のない者への赦し」を表す、ある有名な実話があります。
1930年代のニューヨークでのことです。
ラガーディアという市長が裁判長を務めていた日、一人の老女がパンを盗んだ罪で引き出されました。
彼女は「娘は病気で、孫たちは飢えて泣いていました」と涙ながらに訴えました。
しかし裁判長は「法は法だ。罰金10ドル、払えなければ労役10日間」と冷徹に言い渡します。
老女に払えるお金などありません。
しかしその直後、裁判長は自ら帽子に10ドル札を入れ、「これが彼女の罰金だ」と言いました。
老女の罪の代価を、裁く側が自ら身銭を切って支払ったのです。
しかしそれだけではありません。
裁判長は判決文にさらにこの一文を付け加えました。
「飢えた孫のために祖母がパンを盗まねばならないこの冷たい町に住む罰金として、ここにいる全員から50セントずつ徴収する」。
その場にいた傍聴人や警官、果ては老女を訴えたパン屋の店主までが帽子の中に50セントずつ投げ入れ、それは約50ドルという、当時としては大変な大金になったといいます。
そして裁判官はぱんぱんになった自分の帽子を老女の手に渡し、「これを孫たちに持って帰りなさい」とプレゼントして釈放したのです。
イエス・キリストが私たちに与えてくださった十字架の救いは、これとよく似ています。
単に「罪が赦されてマイナスがゼロになった」つまり罰金が払われただけでなく、「神の一方的な恵みによって、ゼロどころか圧倒的なプラス(豊かなプレゼント)を与えられて新しい人生へと送り出される」に至りました。
私たちが日々、介護や仕事の重圧に耐え、生活の不安に押しつぶされ、「もう誰にも何も与えられない」「自分の価値を証明できない」と立ちすくむ時があります。
しかし、自分の手からすべてが滑り落ちていくようなその時こそ、「あなたはもう、自分の力で人生の代価を払わなくていい」というイエスの大きな愛を受け取る最高の時なのです。
イエス様の十字架は、私たちにこう語りかけています。
「あなたは、私に何かを差し出さなければ愛されない存在ではない。
立派な成果や、目に見える収穫を上げなければ価値がないわけではない。
あなたの罪も、不安も、将来への恐れも、私がこの十字架で命をもってすべて買い取った。
だから、安心して身を委ねなさい」と。
これから迎える受難週、そして復活のイースターに向けた歩みの中で、私たちはもう、自分の力で「人生の代価」を支払い続けようとする重い荷物を下ろしてよいのです。
日々の生活の不安も、将来の教会の歩みへの気がかりも、十字架上で「すべては終わった」と宣言された主の御手に委ねましょう。
手足を釘付けにされ、何もできなかった強盗が、ただ主を見上げてパラダイスを約束されたように、私たちも空っぽの手を開いて、主の恵みだけを真っ直ぐに受け取りたいと願います。
今週も、どんな苦難の中にあっても変わることのない「父よ、彼らをお赦しください」という主の愛の眼差しが、皆様お一人お一人の心と体に、そして不安を抱える日々の生活の上に、豊かな希望として注がれますようにお祈りいたします。