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みなさん、おはようございます。四旬節第5主日を迎えました。
私たちの日常には、「なぜ私が、今このタイミングで?」と天を仰ぎたくなる瞬間があります。
例えば、町内会やPTAの役員決めの場。
皆が下を向き、「どうか私に当たりませんように」と息を潜めている中、ふと肩を叩かれ、一番大変な役を押し付けられてしまう。
「よりによって、こんなに忙しい時に…」と、貧乏くじを引いたように感じる重荷です。
あるいは、家族の介護、突然の病、先の見えない経済的な不安など、人生には私たちが決して望んでいない「強制的な重荷」を背負わされる日があります。
今日お読みしたルカの福音書23章には、まさにその「最悪の貧乏くじ」を引かされ、突然の重荷を背負わされた一人の男性、クレネ人シモンが登場します。
しかし聖書は、この理不尽で苦痛に満ちた「強いられた重荷」が、やがて彼の人生を根底から変える「強いられた恵み」へと反転していく秘密を語っています。
今日は、十字架の道を歩まれる主イエスと、そこに居合わせたシモン、そして嘆き悲しむ女性たちの姿から、私たちの重荷の向こうにある希望をご一緒に聴き取ってまいりましょう。
舞台はエルサレムの城壁の外、ゴルゴタの丘へと続く「悲しみの道」です。
激しい鞭打ちを受け、血まみれになったイエス様は、もはやご自分で重い十字架を背負う体力が残っていませんでした。
そこでローマ兵は、過越の祭りのために遠く北アフリカからやって来たクレネ人シモンを捕まえ、無理やり十字架を負わせます。
彼にとって、見ず知らずの死刑囚の刑具を背負わされることは、予定外の極みであり、屈辱と怒りしかなかったはずです。
そして、その過酷な道を歩むイエス様の背後には、胸を打ち叩いて嘆き悲しむエルサレムの女性たちの群れがいました。
彼女たちは死にゆく者へ同情の涙を流すという当時の習慣に従い、ただただ悲惨な運命を哀れんで泣いていました。
無理やり肉体的な重荷を負わされたシモンと、感情的に同情の涙を流す女性たち。
一見バラバラに見えるこの二者には、共通点がありました。
それは「十字架の本当の意味を知らず、ただ目の前の悲劇の表面だけを見ていた」ということです。
しかしイエス様は、この不条理と悲しみのパレードの中で立ち止まり、彼らに、そして私たちに、十字架の奥底にある神の深い御心とあたたかな希望を語りかけようとされます。
極限の苦痛の中で、イエス様は振り向き、女性たちに語られます。
「私のために泣くのをやめなさい。むしろ、自分と自分の子どもたちのために泣きなさい」。
これは冷たい拒絶ではありません。
約40年後の紀元70年、エルサレムはローマ軍によって包囲され、神殿の石が崩れ落ちるほどの凄惨な滅びを迎えます。
さらに主の眼差しは、その歴史的悲劇をも貫き、やがて来たるべき再臨の前の激しい試練、すなわち私たちが生きるこの終末の時代にまで向けられています。
ご自身が十字架で息絶えようとするその瞬間になお、後に残される者たちの魂の行方と、迫り来る苦難を想い、真の悔い改めと救いへと招く、熱く慈愛に満ちた預言の言葉なのです。
十年以上前、重い糖尿病を抱えていた婦人信徒をお見舞いした時のことです。
励まそうとする私に対し、その方は、荒い息の下から、逆に私の家族や教会の未来のために、涙を流して熱心に祈り始めてくださったのです。
自分の命が尽きようとする極限状態の中で、ただ他者の魂を思いやり、執り成す。
その姿に胸を強く突き刺され、圧倒されました。
イエス様の十字架の歩みはまさにこれです。
主はご自分の痛みを越え、私たちの魂を気遣って歩まれているのです。
このイエス様のお姿は、現代の私たちと深く結びついています。
私たちもシモンのように、突然の病、衰えゆく体、高齢のご家族の介護、あるいは新しい会堂への準備など、心身に重くのしかかる「予期せぬ十字架」を負わされることがあります。
理不尽さにため息をつき、「なぜ私が」と不満を抱えたまま、重い足取りで歩む日々かもしれません。
また、愛する家族や子どもたちがなかなか信仰の決心に至らないこと、先行きの見えない教会の現状に対して、悲しみや不安の涙を流すこともあるでしょう。
しかし、私たちが背負う重荷のすぐ前には、シモンの時と同じように、私たちの本当の重荷である「罪と死」をすべて引き受けて先立ってくださるイエス様の背中があります。
主は、私たちがただ不満を抱えたり、状況を悲観して同情の涙を流したりするだけで終わることを望まれません。
不条理に見えるその重荷は、イエス様と共に歩むとき、私たちが神の愛に触れ、愛する者たちの魂の救いのために「祈る者」へと変えられるための、尊い「強いられた恵み」へと反転していくのです。
主の温かい眼差しは、今、重荷を負うあなたに真っ直ぐに注がれています。
のちに、無理やり十字架を負わされたシモンの二人の子ども、ルポスとアレキサンデルは、初代教会において素晴らしい信仰者として重んじられるようになりました。
あの日の「最悪の貧乏くじ」は、シモン自身と、愛する子どもたちが永遠の命を受け取るための「最高の恵み」へと変えられたのです。
「子どもたちのために泣きなさい」という主の言葉の奥には、「あなたが涙して祈るなら、私は必ずその魂を救い出す」という力強い約束と希望が込められています。
今、あなたが抱えている生活の重圧や健康への不安、次世代への切なる祈りも、イエス様と共に歩む十字架の道において、決して無駄にはなりません。
自分の不甲斐なさや重荷の重さに立ち止まりそうになる時、どうか前を歩まれる主の背中を見つめてください。
主はあなたの痛みを共に担い、あなたとあなたの大切な家族のために、今日も執り成してくださっています。
希望を持って、この新しい一週間を歩み出してまいりましょう。
十字架の道を先立って歩まれる主イエス・キリストの豊かな平安と慰めが、皆様お一人お一人の心と体に、そして愛する子どもたちの上に、今週も豊かにありますようにお祈りいたします。