恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「弱さを包む愛のまなざし」(ルカ22:47-62)

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 みなさん、おはようございます。四旬節も第4主日を迎えました。
先日、入院中の教会員からLINEが届き、ヨハネの福音書を読んで心を安らかにさせられたという一言の証しがありました。
私は少年時代に入院生活を繰り返しましたが、その頃は、病気が治るんだろうかと不安で、悪気はなくても、つい回りを困らせてしまうことがあり、何という違いかと思わせられます。
 私たちの日常には、悪気はなかったのに、つい心とは裏腹の行動をとってしまう「気まずい瞬間」というものがあります。
例えば、家族に「今日は私が夕食を作るから、全部任せて!」と元気よく宣言したのに、仕事や奉仕で疲れ果ててしまい、結局ソファで寝込んでしまった時。
あるいは、大切な人に「いつでも相談に乗るよ」と言いながら、いざ相手が深刻な悩みを打ち明けてきた時、自分の余裕のなさから、つい生返事をしてしまった時。
「あんなに立派なことを言ったのに…」と、顔を合わせるのが申し訳なくなり、つい相手の目を避けてうつむいてしまう。
 今日お読みした場面は、イエス様の最も近くにいた弟子たちにとって、まさにその「うつむいて目を合わせられない」最大の失敗と挫折の夜でした。
あれほど熱心に主に従っていた弟子たちが、決定的な局面で主を裏切ってしまったのです。
一人は銀貨で主を売り渡したユダ、もう一人は「絶対に裏切らない」と豪語していたペテロでした。
今日は、この二人の姿と、ペテロを包み込んだ「主のまなざし」を通して、私たちの弱さも覆う神の恵みについてご一緒に味わってまいりましょう。

 さて、オリーブ山で血の汗を流すような祈りを終えられたイエス様のもとに、群衆が剣や棒を手にしてやって来ました。
その先頭に立っていたのは、十二弟子のひとり、イスカリオテのユダです。
彼は、当時、尊敬する先生への親愛を表す挨拶であった「口づけ」を暗号として用い、イエス様を敵の手に引き渡しました。
最も親密な愛の表現が、冷酷な裏切りの道具として使われたのです。
イエス様は「ユダ、あなたは口づけで裏切ろうとするのか」と、その心の闇を深く悲しまれました。
 一方、捕らえられたイエス様が大祭司の家に連行されると、ペテロは遠くから後をついて行きました。
彼は決して主を見捨てたわけではなく、何とか状況を見守ろうとする思いがあったのでしょう。
しかし、中庭で火にあたっているところを女中たちに見咎められます。
「この人も一緒にいました」。
その言葉に対する恐怖から、ペテロは三度も「そんな人は知らない」と激しく否定してしまいます。
親愛の口づけで主を売ったユダと、保身のために主を「知らない」と否定したペテロ。
形は違えど、二人は共に、自分の身を守るために救い主を切り捨ててしまったのです。
この夜の冷たい空気の中で、人間の弱さと罪の現実が残酷なまでに浮き彫りにされました。

 同じように裏切りの罪を犯したユダとペテロ。
なぜユダは絶望へと向かい、ペテロは赦しと回復の道を歩めたのでしょうか。
ユダは自分の犯した罪の重さに気づき、後悔しました。
しかし彼は自分の「失敗」という事実だけを見つめ、神の憐れみを見上げることをしませんでした。
一方、ペテロの運命を変えた決定的な瞬間が61節にあります。
「主が振り向いてペテロを見つめられた」のです。

 ある家庭での出来事です。
免許を取ったばかりの若者が、親の車を借りて出かけました。
「絶対に傷つけないから!」と約束したのに、気の緩みから壁に激突し、車を大きくへこませてしまいます。
若者は青ざめ、激しく怒鳴られることを覚悟して、震えながら親の帰りを待ちました。
帰宅した父親は、へこんだ車を見るなり、若者のそばに駆け寄りました。
しかし父親が真っ直ぐに見つめたのは、壊れた車(失敗)ではなく、恐怖でうつむく子どもの顔でした。
そして「怪我はなかったか? 無事で本当によかった」と抱きしめたのです。
若者は、怒られることしか考えていませんでした。
しかし、失敗を責めるのではなく、自分の存在そのものを案じ、愛してくれる父親の「まなざし」に触れた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、声を上げて泣き崩れました。

 イエス様のまなざしも、まさにこの父親のまなざしでした。
裁きや怒りではなく、「あなたの弱さを知っている。
それでもあなたを愛している」という底知れぬ慈愛。
ペテロは、この愛のまなざしに触れたからこそ、外に出て激しく泣き、真の悔い改めへと導かれたのです。

 このイエス様のまなざしは、二千年後の今を生きる私たち一人一人にも、真っ直ぐに注がれています。
私たちの群れの中には、大きな病気を抱えて痛みと戦っておられる方や、手術を終えて一日も早い回復を指折り数えて待っておられる方がいらっしゃいます。
また、日々の生活や、教会でのご奉仕に一生懸命に取り組むあまり、心身ともに疲れ果ててしまっている方もおられるでしょう。
 病の床で「なぜ私だけがこんな目に」と弱音を吐きそうになったり、疲れのあまり「もう誰の役にも立てない」と自分を責めてしまったりする時、私たちはペテロのように「主が見えなくなっている」状態に陥ります。
立派な信仰者であれない自分を恥じて、主から目をそらし、うつむいてしまうのです。
 しかし、どうか顔を上げてください。
私たちが自分の痛みや疲れ、不甲斐なさで頭を抱え込んでいるまさにその時、イエス様はあなたを静かに、そして熱く見つめておられます。
あなたがどんなにボロボロであっても、失敗したと感じていても、主があなたから目を離すことは決してありません。
「あなたの痛みも、疲れも、すべて知った上で、私はあなたを愛しているよ」。
この慈愛のまなざしこそが、凍りついた私たちの心を溶かし、再び立ち上がる力を与えてくれるのです。

 本当の悔い改め、そして真の回復とは、単に自分の行いを反省して「次はもっと頑張ろう」と気合を入れ直すことではありません。
自分の罪や弱さ、不完全さから一度目を離し、私たちを限りない愛で見つめてくださるイエス様のまなざしへと、視線を合わせ直すことです。
ペテロが流した「激しい涙」は、後悔の苦い涙であると同時に、こんな自分をも見捨てない主の温かい愛に触れて溢れ出した、赦しの涙でした。
 私たちも、主の御前で大いに泣いてよいのです。
痛みのゆえに、疲れのゆえに、そして何より、主の愛の温かさのゆえに、ありのままの涙を流してよいのです。
その涙の向こう側に、確かな希望の歩みが再スタートします。
これからの一週間、病の床にある時も、少しずつリハビリに励む日々の中にも、また様々な奉仕や日常の疲れを感じる中にも、必ず主の優しいまなざしがあなたに注がれています。
 「主が私を見つめておられる」。この確かな事実を、どうか忘れないでください。
ユダのように自分の失敗の闇に沈むのではなく、ペテロのように主のまなざしの光の中へと駆け込みましょう。
私たちの弱さを覆い尽くすイエス・キリストの深い十字架の愛と平安が、みなさんお一人お一人の心とからだに、今週も豊かにありますようにお祈りいたします。