恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「剣を越える祈りの力」(ルカ22:31-46)

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 みなさん、おはようございます。四旬節第3主日を迎えました。
春の足音が少しずつ近づくこの季節は、私たちの生活の中でも、古いものを整理し、新しい場所へと移っていく準備をする時期でもあります。
長年使い慣れたものを手放し、本当に必要なものを選び取る作業は、体力も気力も使うものです。
「さあ、頑張って終わらせよう!」と最初は熱意に満ちていても、目の前に積まれた課題や荷物の山を見ると、ふと自分の無力さを覚えたり、不安になったりすることがあります。
人生の転換期には、人間の熱意だけでは乗り越えられない壁に直面するものです。

 今日お読みしたルカの福音書22章後半も、イエス様と弟子たちが、古い時代から「十字架と復活」という新しい時代へと移行していく、その痛みを伴う準備の夜の出来事です。
愛する弟子ペテロは「あなたと一緒なら、牢に入っても、死んでもよいと覚悟しています」と、自分の力と熱意を頼りに宣言しました。
しかしイエス様は、人間の熱意の限界を静かに見つめ、全く別の勝利の道を私たちに示そうとされています。
今日は「オリーブ山の祈り」を通して、本当の力とは何かをご一緒に聴き取ってまいりましょう。

 最後の晩餐を終えたイエス様たちは、エルサレムの東にあるオリーブ山へと向かわれました。
この美しいオリーブの木々が茂る園で、歴史上最も壮絶な祈りの戦いが始まります。
その直前の35節から38節で、イエス様は少し不思議なことを言われます。
「剣のない者は、上着を売って剣を買いなさい」と。
これは決して、武力で敵と戦いなさいという命令ではありません。
これから彼らが直面する十字架の出来事が、それほどまでに激しく、敵意に満ちた厳しい現実であることを「剣」という言葉で象徴的に警告されたのです。

 しかし、弟子たちはその深い意味を悟れず、「主よ、ご覧ください。
ここに剣が二振りあります」と、物理的な剣を差し出します。
人間の力で、武器で、この危機を乗り越えようとしたのです。
イエス様は「それで十分だ」と短く言葉を切られました。
これは「二振りあれば勝てる」という意味ではなく、「もうその話はよい、あなたがたは分かっていない」という悲しみのこもった言葉でした。
人間の熱意(ペテロの決意)や人間の武器(二振りの剣)では、この先にある真の試練を乗り越えることはできないのです。

 では、イエス様が示された「剣を越える力」とは何だったのでしょうか。
それこそが、神に完全に身を委ねる「祈り」でした。
ひとつのたとえ話をいたします。
川で溺れかけた子どもを助けようと、父親が激しい流れに飛び込みました。
父親は子どもに追いつきますが、パニックに陥った子どもは必死にもがき、助けに来た父親の頭を水中に押し沈めようとしてしまいます。
子ども自身の「自分の力でなんとか生き延びよう」とする熱意と力そのものが、救助の最大の妨げになっていたのです。
その時、父親は水面から顔を出し、強く叫びました。
「暴れるな!お父さんを信じて、力を抜け!」。
子どもがハッとして自分の力を手放し、父親の胸の中にぐったりと身を任せたその瞬間、父親の力強い泳ぎによって、二人は無事に岸へとたどり着くことができました。

 弟子たちが振りかざそうとした「二振りの剣」や、ペテロの「死んでもついていく」という熱意は、まさにこの溺れる子どものもがきと同じです。
自分の力で危機を乗り越えようとするあまり、救い主の本当の御心を妨げてしまうのです。
一方、イエス様はオリーブ山でひざまずき、汗が血のしずくのように落ちるほど苦しみながらも、最後にはこう祈られました。
「父よ、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
イエス様は、十字架という恐ろしい死の淵にあって、ご自分の願いや力を完全に手放し、父なる神の確かな腕の中にその命を委ねられました。
これこそが、人間の強がりを捨て、神との深い信頼関係の中で得る「究極の勝利」の姿だったのです。

 このイエス様の姿は、現代を生きる私たちに、深い慰めと指針を与えてくれます。
私たちは、これからの未来に向けて新しい責任や役割を担う時、あるいは大切な物事を皆で相談して決めていかなければならない時、
つい自分の経験や正しいと思う意見を「剣」のように振りかざしたり、自分の力だけで背負い込もうとしたりします。
しかし、今日の午後から行われる新年度の役員会をはじめ、私たちが本当に大切にすべきなのは、
互いに自分の力を少し抜き、「神様のみこころは何ですか」とひざまずいて共に祈ることです。

 また、私たちの群れの中には、大きな病気を抱えたり、手術を控えたりして、先の見えない深い不安の夜を過ごしておられる方もいらっしゃいます。
痛みや恐れの前では、人間の強がりなど全く役に立ちません。
その時は、オリーブ山のイエス様のように「苦しい、この杯を取りのけてほしい」と、ありのままの涙を流してよいのです。
イエス様が祈られた時、杯そのものはなくなりませんが、天から御使いが現れて主を力づけました。
私たちが弱さの中で「みこころのままに」と神に身を委ねる時、神様は必ず祈りを聞かれ、耐え抜くための平安や、医療の手、友人の祈りを送って、私たちを力づけてくださるのです。
私たちの強さは、どれだけ立派な剣を持っているかや、どれほど強い熱意を持っているかによって決まるのではありません。
本当の強さとは、自分の弱さを認め、父なる神の御前にひざまずくことから始まります。
「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」。
この祈りこそが、どんな困難をも乗り越えさせる最強の武器なのです。

 今日の午後、新しい会堂への歩みに向けて、古い備品を選別し、額に汗して作業をしてくださる有志の方々がいらっしゃいます。
また、これからの教会の歩みを真剣に祈り、話し合う役員の方々がいます。
そして今、病院のベッドやご家庭で、じっと病の癒やしを祈り待っている方々がおられます。
どのような状況にあっても、私たちが向かう先には、共にいて祈りを聞いてくださる父なる神様がおられます。
私たちの手にある不完全な剣を下ろし、ただ神の愛とみこころに信頼して、この新しい一週間を歩み出してまいりましょう。
オリーブ山で祈られた主イエス・キリストの平安と慰めが、皆様お一人お一人の心と体に、そして愛するご家族の上に、豊かにありますようにお祈りいたします。