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みなさん、おはようございます。
今日、子どもたちからご年配の方々まで、ひとつの家族として共に礼拝を捧げられる恵みを感謝いたします。
私たちの日常には、家族や共同体のために尽くしても「本当の心や苦労を分かってもらえない」という理不尽な思いを抱える瞬間が必ずあります。
この詩篇の作者ダビデも人々の深い誤解と悪意に取り囲まれていました。
ダビデは神様に油を注がれ、民を導き仕えるという尊い使命を与えられた人物です。
しかし、神に仕えようとすればするほど、かえってサウル王の嫉妬を買い、命を狙われるという過酷な重荷を負うことになりました。
1節でダビデは「主よ聞いてください、正しい訴えを。耳に留めてください、私の叫びを」と祈ります。
「私の心に悪意などないことを、神様、あなただけはご存知です」という切実な訴えです。
厳しい荒野の中で、彼は人間の不完全な評価ではなく、天におられる神様に目を向けました。
神や人のために尽くして疲労し、孤独を感じる時、人は「なぜ自分ばかりが」と崩れそうになります。
しかしダビデは、すべてを正しく見通される方への信頼に、自らの魂の錨(いかり)を下ろしたのです。
このダビデの祈りの中心には「全知全能の神が、取るに足りない私たち一人ひとりを極めて個人的に愛し、守り抜かれる」という力強い真理が流れています。
8節でダビデは「瞳のように私を守り、御翼の陰にかくまってください」と祈りました。
「瞳」は体の中で最も無防備であり、ゆえに最も敏感に守られるべき大切な場所です。
神様は、私たちをそのように大切に扱ってくださいます。
また「御翼の陰」とは、親鳥が自らの命を盾にし、羽の下に雛をすっぽりと包み込む姿です。
激しい嵐が吹き荒れても、親鳥は決して逃げず、覆いかぶさるようにして外敵からの攻撃を受け止め、その陰で雛を温めてくれます。
ダビデは、人間の誤解や重責という冷たい風の中で、この圧倒的な神の保護の約束こそが、私たちが立つべき信仰の安全地帯であると確信して語っているのです。
この「御翼の陰」の愛について、ある有名な実話があります。
大規模な山火事が鎮火した後の森でのことです。
焼け焦げた森を見回っていた森林警備隊員が、地面で黒焦げになっている一羽の親鳥を見つけました。
彼が棒でその死骸をそっとひっくり返すと、なんとその羽の下から、三羽の雛鳥が元気よく飛び出してきたのです。
親鳥は、炎が迫った時、自分だけ大空へ逃げることもできました。
しかし決して逃げず、自らの命を炎の盾にして、愛する家族を守り抜いたのです。
この黒焦げになった親鳥の姿は、他でもない、私たちの身代わりに十字架にかかられたイエス・キリストの姿そのものです。
神様は、私たちが罪や絶望という炎に焼かれないよう、ご自身のひとり子を十字架につけるという究極の痛みを引き受けられました。
イエス様は逃げることなく、両手を大きく広げて「御翼」となり、私たちをその陰にすっぽりと包み込んで、すべての苦しみを一身に受けてくださったのです。
神様は私たちを守るために、ご自身のひとり子イエス・キリストを十字架につけるという究極の痛みを引き受けてくださいました。
私たちが今、生かされ、ひとつの家族として礼拝を守っているのは、キリストの命がけの「御翼」に守られているからです。
十字架こそが、私たちが神の「ひとみ」として愛し抜かれた究極の現れなのです。
この圧倒的な愛を知った時、私たちの生きる目的は根底から覆されます。
ダビデは14節で、「相続分が地上のいのちであるこの世の人々」について語っています。
彼らは目に見える成功や富を追求し、子孫に財産を残すことで自分の人生を有意義なものにしようとします。
しかしそれだけが正しい道でしょうか。
ある時、社会的に大きな成功を収めた人が、毎週末に教会で骨身を削って奉仕するクリスチャンの友人にこう言いました。
「なぜ君は、自分のために時間と労力を使わないのか。
宗教にかまけて時間を使い果たすなんて、つまらない人生じゃないか。
みんなと同じように生きれば、もっと豊かに、楽になれるのに。
誰もそんな生き方を真似しようとは思わないよ」と。
するとそのクリスチャンは穏やかに微笑みながら、「確かに君の言う通りかもな」と言いました。
「多くの人が、この世でその働きにふさわしい報酬を得ている。
でも、私にはすでに『神様ご自身』という最高の報酬があるんだ。
私を命がけで愛し、御翼の陰で守ってくださる方のために自分の小さな命を使えること、それ以上の喜びも平安もないよ」と。
今日、私たちの教会は総会を開き、役員選挙を行います。
教会の働きのために自らの時間を割き、重荷を背負って誰かのための「小さな翼」となることは、世の中の価値観からすれば「割に合わない犠牲」に見えるかもしれません。
しかし私たちは、この世の報いや人の評価を期待して生きる者ではありません。
自分を十字架で守り抜いてくださったキリストの愛に押し出され、喜んで応答する者です。
そして不思議なことに、神様や共同体のためにあえて嵐の矢面に立ち、重荷を担うその人は、実は誰よりも深くキリストの「御翼の陰」に包まれ、圧倒的な恵みと守りを肌で知る人となります。
これこそが、特権としての奉仕の姿です。だからこそダビデは15節でこう宣言します。
「私は目覚めるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」。
究極の平安と満足は、この世の報酬ではなく、キリストの御顔を仰ぎ見ることにあるのです。
今日から始まる新しい歩みにおきましても、私たち一人ひとりが主の十字架の愛に満たされながら、互いの重荷を祈りで担い合い、共に力強く歩み出していきましょう。
お祈りいたします。
天の父なる神様。
取るに足りない私たちを、あなたのかけがえのない「ひとみ」として愛し、御子イエス様の十字架という「御翼の陰」にすっぽりと包んでくださっていることを心から感謝いたします。
どうか私たちが、この世の報いや目に見える評価に心を奪われることなく、あなたご自身を私たちの満ち足りる最高の報酬とさせてください。
今日行われる総会と役員選挙の上に、あなたの豊かな導きがありますように。
教会の重荷を担い、兄弟姉妹の小さな翼となって仕えようとする一人ひとりを、あなたが誰よりも深く慰め、その御翼の陰で力づけ、祝福で満たしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。