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みなさん、おはようございます。
まだ寒い日が続きますが、暦の上では立春に入っております。
皆さんもご存知のように、私たちの新しい教会堂の建設工事は、いよいよ最終段階を迎えています。
先日、工事現場を少し覗かせていただきましたが、木の香りが漂う真新しい会堂は、まだ何も置かれていない静けさの中で、私たちの到着を今か今かと待っているようでした。
しかし、皆さんの心の中には、期待と共に、ある種の「不安」や「戸惑い」はないでしょうか。
「立派な建物が建つのは嬉しいけれど、私たちはその器に見合うだけの群れになれるだろうか」「建物が新しくなっても、私たち自身が変わらなければ意味がないのではないか」。
そのような声が、心の奥底で響いているかもしれません。
それは、とても健全で、誠実な問いかけです。
なぜなら、教会とは、決して鉄筋やコンクリート、木材で造られた建物のことではないからです。
私たちが4月から足を踏み入れる新しい会堂。
それは確かに、神様が私たちに与えてくださった素晴らしい贈り物です。
しかし、今日開かれたエペソ人への手紙が語るように、真の「神の住まい」とは、建物そのものではなく、イエス・キリストにあって一つとされた、私たち「人間」そのものなのです。
新しい会堂という入れ物が完成しようとしている今だからこそ、私たちはその中で満たされるべき魂、すなわち、私たちの信仰のあり方、共同体としての姿を、御言葉を通して再確認する必要があります。
建物という目に見える「しるし」を通して、目に見えない神の国の現実を、ご一緒に見つめてまいりましょう。
さて、今日私たちが共に聴くエペソ人への手紙が書かれた時代へと思いを馳せてみましょう。
当時のエペソという都市は、ローマ帝国の中でも屈指の大都市でした。
そこには、古代世界の七不思議の一つにも数えられた「アルテミス神殿」がそびえ立っていました。
それは巨大な石柱に支えられ、金銀宝石で飾られた、圧倒的な威容を誇る建造物でした。
エペソの人々にとって、「神の住まい」と言えば、そのような人間の手による壮麗な石造りの神殿を指すのが常識だったのです。
また、当時の社会は、ユダヤ人と異邦人との間に、決定的な「壁」が存在していました。
神殿の構造自体が、異邦人が立ち入れる場所とユダヤ人が入れる場所を厳格に区別しており、その隔ては乗り越えられないものとして認識されていたのです。
しかし、パウロはこの手紙を通して、驚くべき宣言をします。19節をご覧ください。
「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」と。
ここでパウロは、かつては「よそ者」であり、神の約束から遠い存在であった人々が、今やキリストの血によって「神の家族」という最も親密な関係の中に入れられたと語ります。
そして、彼らが築き上げるべき「神殿」は、冷たい大理石でできたアルテミス神殿のようなものではなく、生身の人間一人一人が「生ける石」として組み合わされてできる、有機的で霊的な神殿であると説くのです。
これは当時の宗教観を根底から覆す、革命的なメッセージでした。
神は、手で造られた建物に住まわれるのではなく、キリストを信じる者たちの交わりの中にこそ、その住まいを定められるというのです。
新しい会堂を前にした私たちもまた、この「建物ではなく、私たちが神殿である」という原点に、深く根を下ろす必要があります。
21節は、本年度の目標聖句になります。
「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります」。
ここで注目したいのは「組み合わされ」という言葉です。
原語のギリシア語では、石工が石と石を隙間なくぴったりと合わせるような、緻密で調和のとれた結合を意味します。
これを私たちの共同体に置き換えるならば、どのようなイメージになるでしょうか。
それはまるで、空から舞い降りる美しい「雪の結晶」のようです。
雪の結晶を顕微鏡で見ると、水分子が厳密な秩序を持って結合し、完璧な六角形の調和を保っているのが分かります。
ですから雪のことを別名、六の花と書いて六花と呼びます。
中心から伸びる結晶が互いに支え合い、連結することで、あの息を呑むような美しさが生まれるのです。
教会も同じです。
私たち一人一人は異なる個性や背景を持っていますが、キリストという中心に正しく結び合わされる時、そこに神の家族としての美しい秩序と調和が生まれます。
この「組み合わされる」という現実は、単に隣に座っているということではありません。
ぜひ週報の表紙に記したイメージ図をご覧ください。
隣り合う六角形が辺を接して支え合うように、互いの弱さを補い合い、重荷を負い合う、密接な交わり(コイノニア)を意味します。
雪の結晶がその整然とした構造ゆえに輝くように、私たちが「愛のきずな」で固く結ばれているならば、その交わりの美しさ自体が、世の人々に対する力強い証しとなります。
神の国は、言葉だけの説明ではなく、私たちが互いに愛し合うその姿の中に、可視化されるのです。
この新しい会堂において、私たちはそのような「生ける神殿」としての美しさを、内側から輝かせていこうではありませんか。
では、具体的に私たちはどのようにこの新しい歩みを進めていけばよいでしょうか。
まず、新しい会堂にふさわしい「宣教への志」を新しくしましょう。
主は「新しいぶどう酒は新しい革袋に」と言われました。
建物という器が新しくなる今、私たちの内にある情熱もまた、更新される必要があります。
もう一度このイメージ図を見てください。
中心にある鮮やかな赤色は、キリストの十字架の血潮であり、同時に燃えるような宣教への情熱です。
この新しい会堂は、私たちがただ快適に過ごすためのサロンではありません。
キリストの愛を地域へ発信するための「砦」であり、暗闇を照らす「灯台」なのです。
建物が完成した今こそが、本当のスタートラインです。
未信者の方が一歩足を踏み入れた時、「ここは神がおられる」と感じていただけるような、温かく、かつ霊的な力に満ちた礼拝を共に捧げようではありませんか。
そして、牧会やケアにおいても、新しい形を目指しましょう。
雪の結晶の構造において、一つの六角形は必ず他の複数の六角形と接し、支えられています。
私たちも、一人の魂を「チーム」で支える体制を作りましょう。
長期間教会を離れている方や、新しく来られた求道者の方をケアする際、たった一人の担当者に任せきりにせず、複数の教会員が関わるのです。
「三つ撚りの糸」は簡単には切れません。
例えば訪問する時も二人で、あるいは情報を共有し、祈りのスクラムを組んで関わるのです。
そうすることで、相手の方は「特定の人としか話せない」という閉塞感から解放され、教会全体に愛されているという安心感を抱くことができます。
一人が孤立することなく、再び主の群れにしっかりと繋がり、定着していけるよう、多面的で厚みのあるケアを実践していきましょう。
しかし実はこのイメージ図を作ってみて、あれっと思ったのです。
教会員と書かれている六角形の外側、これは私たちが福音を宣べ伝えるべき、未信の人々を表しています。
確かに教会員と書かれている六角形が二つ以上接しているものもありますが、一つしか接していないものもあります。
作ってみて、あれれと思いました。
しかしここでこう考えることができるでしょう。
宣教は、クリスチャンだけでなく、未信者の方にも協力してもらいながら、できるのだ、と。
関わったからすぐに救われるわけではないでしょう。
しかし関わりの深い未信の友人に協力してもらって、関わりの薄い友人に、みことばを語るお手伝いをしていただく、ということもできるのです。
私たちは完成品ではありません。
新しい会堂ができあがっても、私たち自身の「神殿づくり」は続きます。
時にはぶつかり合い、削られる痛みがあるかもしれません。
しかし、大工である主イエスが、私たちを最高傑作へと作り上げてくださることを信頼しましょう。
来週、教会総会を行います。
建物という「器」に見合うだけの、豊かな霊的実りを目指し、教会員一人ひとりが、イエス様にこの会堂を委託された忠実なしもべであるという自覚を持って、大胆に踏み出していきましょう。
主が新しい会堂を祝福し、それにふさわしい中身として、私たちをも祝福してくださいますように。
お祈りいたします。
恵み深い天の父なる神様。
美しい会堂をもうすぐ与えてくださることを感謝します。
しかし、どうか私たちが、建物に安住することなく、互いに愛し合い、支え合い、あなたの愛を地域に流し出す生ける神殿として成長していくことができますように。
私たちの交わりの中にあなたが住まわれ、この場所が多くの魂の故郷となりますように。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。