恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「荒野の旅路をイエスと共に」(ルカ4:1-13)

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 みなさん、おはようございます。
雪のない12月、雪降りすぎの1月と過ごしてきて、この2月はどんなひと月になるのかなと思いますが、まあ新潟らしい真冬の一ヶ月となるのでしょう。
ところがニュースを見ますと、日本海側以外では水不足になっているというわけです。
雪だらけの国と、水のない国、どちらがいいのかなと悩みますが、どちらにしてもあまりいいものではありません。
恵みに感謝して生きる、と口で言うのはたやすい、しかし心の底からそう感じられるかどうかは、簡単ではありません。

 今日、私たちが一緒に学ぶ聖書の言葉もまた、そのような厳しい場所から始まります。
主イエス・キリストが、洗礼を受けられた直後、聖霊によって導かれた場所。
そこは、私たちが想像するような平坦な砂漠ではありません。
切り立った岩肌が続き、昼は太陽が容赦なく照りつけ、夜になれば骨の髄まで凍えるような冷気が襲う、命を拒絶するような場所です。
風の音以外には何も聞こえない、圧倒的な沈黙と孤独の世界。
そのただ中に、主イエスはお一人で立っておられました。

 主はそこで四十日間、悪魔からの試みを受けられました。
「なぜ、神の子であるイエス様が、そのような苦しい場所に?」と思われるかもしれません。
しかし、主イエスがあえてその荒野に立たれたのは、まさに今、人生の寒さや渇きの中にいるあなたと出会うためだったのです。
主は、私たちの痛みを安全な場所から眺める方ではなく、私たちの歩む荒野のただ中にまで降りてきてくださる方です。
今日の御言葉を通して、凍えるような心に、主の温かい光が差し込むことを願っています。
私たちの人生の荒野は、神様の愛と出会うための場所でもあるのですから。

 聖書は「四十日の間、悪魔から誘惑を受けられた」と記しています。
四十日。それは決して短い期間ではありません。
かつてイスラエルの民が荒野を彷徨った四十年間、あるいは預言者エリヤが旅した四十日を思い起こさせます。
この期間、主イエスは何も食べず、極限の空腹の中にありました。
胃がキリキリと痛み、めまいがし、体力が限界に達したその時です。
悪魔は近づいてきました。ここで注目したいのは、悪魔のやり方です。
悪魔は、恐ろしい怪物の姿で襲いかかってきたのではありません。
もっと巧妙に、もっと親しげに、まるで「あなたのためを思っている」かのような顔をして、耳元でささやいたのです。
「もし、あなたが神の子なら……」。

 この「もし」という言葉には、毒が含まれています。
「本当に神はあなたを愛しているのか?」「今の苦しみは何の意味があるのか?」と、神様との信頼関係にひびを入れようとする、疑いのささやきです。
最初の誘惑で、悪魔は石をパンに変えよと言いました。
これは単なる食欲の話ではありません。
「目に見える結果を出せ」「自分の力で満たせ」「役に立つことだけが価値だ」というささやきです。
私たちもよく聞く声ではないでしょうか。
「成果を出さないお前には価値がない」と。
しかし、主は「人はパンだけで生きるものではない」と答えられました。
これは、「私の命は、何を食べたか、何を持ってるかで決まるのではない。
私を生かしているのは、私を愛し、『良し』と言ってくださる父なる神の言葉だ」という宣言です。
私たちの価値は、生産性や所有物にあるのではなく、神様に愛されているという事実にあります。

 二つ目の誘惑は、世界の権力と栄華でした。
悪魔は「私を拝めば、これをやろう」と言います。これは「近道」の誘惑です。
苦しみや十字架を避けて、手っ取り早く成功や賞賛を得ようとする心です。
しかし主は、神だけを礼拝すると答えられました。
真の満たしは、きらびやかな成功ではなく、神様との誠実な関係の中にしかないことをご存知だったからです。

 三つ目の誘惑は、神殿の頂から飛び降りることでした。
「神が守ってくれるはずだ」と、神様の愛を試すような行為です。
これは「奇跡を見せてくれたら信じてやる」「私の願い通りにしてくれたら愛されていると認める」という、条件付きの信仰への誘惑です。
しかし主は、試すことを拒絶されました。
なぜなら、主イエスは奇跡が起きようと起きまいと、父なる神の愛を絶対的に信頼しておられたからです。

 これらすべての誘惑に対して、主イエスが武器とされたのは、ご自分の超能力ではなく、誰でも口にできる「聖書の言葉」でした。
主は、私たちと同じ弱さの中に身を置きながら、神様の言葉への信頼、神様の愛への信頼という、ただ一本の命綱を決して離さなかったのです。
それは、「神の愛以外に、私を本当に満たすものはない」という真理を、身をもって示された瞬間でした。

 この荒野の誘惑は、二千年前の遠い出来事ではありません。
今、私たちの生活の真ん中で起きていることではないでしょうか。
現代という荒野で、私たちは常に「石をパンに変えろ」という圧力にさらされています。
「もっと稼がなければ」「もっと有能でなければ」「もっと良い親でなければ」。
無人島で生きていれば人と比較しなくても済むでしょう。
しかし私たちはいつも比較されます。そして悪魔はささやくのです。
「もし神があなたを愛しているなら、どうしてこんな目に遭うの?」と。
 そんな時、どうぞ思い出してください。
主イエスが、あなたより先にその荒野におられたことを。
主は、あなたのその空腹感、その孤独、その焦りを、痛いほどご存知です。
そして主は、あなたが石をパンに変えるような奇跡を起こせなくても、立派な功績を残せなくても、あなたを愛しておられます。

 「人はパンだけで生きるものではない」。
この言葉は、あなたへのラブレターです。
「あなたは、何ができるか(パン)で価値が決まるような安い存在ではない。
あなたは、神の口から出る愛の言葉によって生かされる、かけがえのない存在だ」と、主は語りかけておられるのです。
私たちが弱くて戦えない時、主が代わりに戦ってくださいました。
ですから、弱いままでいいのです。
ただ、「主よ、助けてください」と、その御言葉にしがみついてください。
主の勝利は、今、あなたのものです。

 今日の聖書箇所の最後には、「悪魔はあらゆる試みを終えると、しばらくの間、イエスを離れた」とあります。
「しばらくの間」とは、「次の時が来るまで」とも訳せます。
私たちの人生にも、次の「時」が来るかもしれません。
一度は信仰によって問題を乗り越えても、再び、心細い風が吹き、不安が押し寄せる日があるでしょう。
しかし、恐れることはありません。
なぜなら、荒野で悪魔に勝利された主イエスが、あなたの内におられるからです。
主は、空腹の時も、孤独な時も、神様への信頼を貫かれました。
その主の強さと優しさが、今、聖霊を通してあなたに注がれています。
あなたが一人で戦う必要はありません。
あなたが「もうだめだ」とうずくまる時、主は静かに隣に座り、「あなたはわたしの愛する子だ」と、何度でも語りかけてくださいます。

 明日からの一週間、それぞれの遣わされた場所へ戻っていかれます。
そこには、それぞれの荒野があるかもしれません。
しかし、どうか顔を上げてください。
目には見えなくても、主はあなたと共にいて、あなたの右の手をしっかりと握っておられます。
パンだけの世界で、パン以上のもの、すなわち神の愛によって生きる喜びを、一歩ずつ味わっていきましょう。
それでは、一緒にお祈りをいたしましょう。

 天の父なる神様。
荒野で勝利された主が、私たちの孤独に寄り添ってくださることを感謝します。
パンだけでなく、あなたの愛の言葉を命の糧とし、主と共にこの一週間を力強く歩み出させてください。
主イエス様の御名によりお祈りします。アーメン。