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皆さん、おはようございます。
先週、大雪のために新千歳空港のロビーで、毛布にくるまって一夜を明かす人々の映像を見ました。
彼らは体こそ空港に留まっていましたが、心の中は不安で漂流していたのではないでしょうか。
『明日の仕事はどうなる』『約束に間に合わない』『いつ家に帰れるのか』。
彼らは皆、『予定通りに目的地に着く』という期待に、心の錨を下ろしていました。
しかし、雪というハプニングがその鎖を断ち切った瞬間、心は行き場を失い、イライラや不安の波に飲み込まれてしまいました。
私たちもよく、『思い通りの人生が進むこと』に錨を下ろしてしまいます。
だから、少しでも予定が狂うと、パニックになり、平安を失うのです。
しかし、今日私たちが共に開く「詩篇16篇」は、まさにそのような人生の揺れ動きの中で、確かな「錨」を見つけた一人の人物の歌です。
この詩を書いたダビデは、決して順風満帆なだけの人生を送ったわけではありません。
命を狙われ、荒野を逃げ回り、裏切りに遭い、夜も眠れない恐怖を味わいました。
しかし、彼はこの詩の中で「私は揺るがされることがない」と力強く宣言しています。
なぜなら、彼の錨は『順調な生活』ではなく、『神様ご自身』という、絶対に動かない岩に深く下ろされていたからです。
なぜ彼は、不安の波の中でそれほどまでに強くいられたのでしょうか。
その秘密は、彼が「本当の幸せ」がどこにあるかを知っていたことにあります。
今日、私たちもその秘密を共に紐解き、心の錨を下ろす場所を見つけていきましょう。
この詩篇の中で最も有名な5節、6節の言葉を足がかりとして、今日のみことばを深く味わっていきたいと思います。
「主は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。
割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です」。
これは神の主権に対する深い信頼を表しています。
当時のイスラエル社会では、土地というものが非常に重要な意味を持っていました。
かつてイスラエルの民が約束の地に入ったとき、ヨシュアによって部族ごとに土地が割り当てられました。
「測り縄」を使って境界線を引き、ここからここまでがあなたの部族の土地、あなたの家族の財産だと決められたのです。
土地を持つことは、生活の安定であり、神の祝福の証そのものでした。
しかし、この詩の中でダビデは驚くべき告白をします。
「主(神様)こそ、私の受ける分、私の杯です」と。
これは、ダビデの告白であると同時に、イスラエルの中に相続地を与えられず、代わりに神こそが相続地だと告白していた、祭司の部族、レビ人の立場に立った告白だと言われています。
何よりも相続地が大切にされるイスラエルにおいて、あえて、目に見えない神様ご自身こそが、私の本当の財産だと告白しています。
当時の常識であった「土地=安定」という価値観を超えて、ダビデは「神様との関係=本当の安定」という真理にたどり着いていました。
私たちは、隣の人の境界線を見て「あちらの方が広い」「あちらの方が日当たりが良い」と妬むことがあります。
これは土地だけの話ではなく、才能や、人間関係なども含みます。
しかしダビデは、神様が引いてくださったその境界線を「好ましい」「素晴らしい」と受け入れました。
なぜなら、その土地の管理人として神様が共におられるからです。
どんなに広い豪邸に住んでいても、そこで孤独と争いがあれば地獄です。
しかし、たとえ小さな部屋であっても、そこに愛する人が共にいて、神の平安があるなら、そこは天国になります。
ダビデが伝えたかったのは、環境が幸いを決めるのではなく、「誰と共にいるか」が幸いを決めるという真理なのです。
神という杯で満たされた人生こそが、決して枯渇することのない喜びの源泉なのです。
では、この真理を現代の私たちの生活に、どのように適用できるでしょうか。
まず、中高生の皆さんに伝えたいことがあります。
皆さんは、SNSなどで友達の生活を見て、「あの子はいいな」「自分はなんでこうなんだろう」と落ち込むことはありませんか。
それは、他人の「境界線」を羨んでいる状態です。
しかし、聖書は語ります。
神様があなたのために引いた境界線は、間違いなく「好ましい所」に落ちているのです。
今はそう思えなくても、あなたという存在は、神様がデザインした最高傑作です。
人と比べることをやめて、「神様、あなたが私をここに置いてくださったのですね」と信頼するとき、心に不思議な平安が訪れます。
そして、人生の経験を重ねてこられた高齢者の皆様。
過去を振り返り、「あの時こうしていれば」「もっと違う人生があったかもしれない」と、悔やむことがあるかもしれません。
あるいは、体の自由が利かなくなり、自分の領域が狭くなっていくような寂しさを感じることもあるでしょう。
しかし、ダビデの言葉を思い出してください。「主は、私の受ける分」。
たとえ健康や若さ、社会的地位が手からこぼれ落ちていったとしても、あなたの本当の財産である神様は、決してあなたから奪われることがありません。
あなたの人生の境界線の中に、神様は今も、これからも共にいてくださいます。
最後に、この詩篇の結びの言葉に心を留めましょう。
「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。
満ち足りた喜びがあなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります」。
ダビデは、死の恐怖さえも超える希望を見つめていました。
実は、この詩篇の後半部分は、後に新約聖書の中で、イエス・キリストの復活を預言した言葉として引用されています。
ダビデの子孫として来られたイエス様は、十字架にかかり、墓に葬られましたが、滅びを見ることなく三日目によみがえられました。
このイエス様こそが、私たちに「いのちの道」をはっきりと示してくださったのです。
今日、私たちはそれぞれの「日常」へと帰っていきます。
そこには、思い通りにならない現実や、面倒な課題、あるいは孤独な時間が待っているかもしれません。
しかし、どうか忘れないでください。
あなたの右の手には、主イエス・キリストがいてくださいます。
幼い子供が、人混みの中で不安になっても、親の温かい手をギュッと握り返された瞬間に安心するように、あなたも主の手を握りしめて歩んでください。
どんなときにも、私たちのすぐそばには、神様という最上の喜びが共にあるのです。
それでは、お祈りします。
恵み深い天の父なる神さま、あなたの御名をあがめます。
私たちはすぐに他人と比べたりする弱さがあります。
しかし、あなたが私たちの人生の境界線を決め、私たちと共にいてくださることを知りました。
どうか、一人一人が、あなたの守りの中で、揺るがない平安を持って今週を歩むことができますように。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。