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皆さん、おはようございます。
たった今、私たちは映像を通して、全国各地で奮闘しておられる開拓教会の様子を目にしました。
いかがだったでしょうか。
わずか数人の礼拝、借り物の会堂、それでもそこには、賛美の歌声があり、祈る姿があり、何より牧師先生ご家族の、困難の中にも喜びをたたえた表情がありました。
あの映像は、遠い国の出来事でも、単なる活動報告でもありません。
あれは、同盟教団という、私たちにとって、「大きな家族」の姿であり、神様の愛を届けるために汗を流して戦っている「最前線」の光景です。
映像を見ながら、皆さんの心に何が残ったでしょうか。
「大変そうだな」と思ったかもしれません。「すごいな」と感心したかもしれません。
しかし、今日私たちが開いている聖書は、その感想を一歩深めるように語りかけます。
「彼らはなぜ、あそこにいるのか?それは、誰かが遣わされなければ、福音が届かないからだ」と。
あの映像に映っていたのは、まさに今日パウロが語る「美しい足」の現代の姿そのものです。
「主の御名を呼び求める者はみな救われる」。
この素晴らしい約束は、誰かが伝えに行かなければ、決して届くことのない約束です。
この約束を信じて、あの映像の中の先生たちは、誰かが行かなければならない場所に、神様の召しに応えて「足」を運び、今も走り続けている方々です。
では、映像を見ていた私たちはどうでしょうか。
スクリーンを見つめていた私たちの「足」は、今どこに向かおうとしているでしょうか。
今日は、あの映像の余韻を胸に留めながら、神様が私たち一人ひとりに託しておられる「届ける」という使命について、心に刻みつけていきたいと願います。
さて、この手紙が書かれた二千年前の世界に少し思いを馳せてみましょう。
当時はもちろん、今のように教会の様子を映像で送ることも、メールで瞬時に報告することもできませんでした。
遠く離れた人々に思いを伝える方法はただ一つ、「人の足」で運ぶことだけでした。
当時のローマ帝国には、軍隊のために作られた立派な石畳の道が張り巡らされていました。
しかし神様は、人間が戦争のために作ったその道を、平和の福音を運ぶために用いられました。
パウロが引用している言葉は、イザヤ書からのものです。
「良い知らせを伝える人たちの足は、なんと美しいことか」。
ここで称賛されている「足」とは、モデルさんのように手入れされた美しい足のことではありません。
山を越え、谷を渡り、靴底はすり減り、泥やほこりにまみれ、時には傷つき血のにじむような足だったはずです。
しかし、不安の中で知らせを待ちわびていた人々にとって、その足音ほど心安らぐ、美しい響きはありませんでした。
なぜなら、その足が運んできたのは「戦いは終わった」「平和が来た」という、命を救う知らせだったからです。
パウロはここで、信仰が生まれるまでの大切なプロセスを階段のように示しています。
「神様が送り出す」から「人が行く」。
「人が行く」から「言葉が届く」。
「言葉が届く」から「聞くことができる」。
「聞く」からこそ「信じる」ことができる。
つまり、信仰というのは、ある日突然空から降ってくるものではなく、誰かが労苦を惜しまず、愛を持って「届けてくれた」結果なのです。
先ほどの映像に出てきた先生たちがそうであるように、そしてかつて、あなたを教会へと導いてくれた誰かがそうであったように、すべての救いの背後には、必ず誰かの「美しい足」の働きがあるのです。
この「送り出される」「届ける」というテーマを、日本同盟基督教団という大きな家族の視点から考えてみましょう。
ここには三つの大切な使命があります。
第一は、「遠くで畑を耕す仲間」への使命です。
映像にあったように、全国には、たった一人で、あるいは少人数で、新しい教会を生み出そうと奮闘している牧師や信徒たちがいます。
彼らは、荒れ地を耕し、種を蒔く農夫のようなものです。
雨の日も風の日も、収穫を信じて働き続けています。
彼らを支えるのは、後方からの支援です。
私たちが捧げる祈りと献金は、彼らにとっての「水」であり「食料」です。
「あなたは一人じゃないよ」「応援しているよ」というエールを送ること。
これもまた、共に宣教の道を歩む「美しい足」の働きなのです。
第二に、「まだ届いていない場所」への使命です。
先ほどの映像には多くの地域が映っていましたが、実は、新潟、山形の先にある秋田県には、同盟教団の教会がまだ一つもありません。
これは例えるなら、ご近所にお裾分けを持っていくとき、一軒だけどうしても届けられていないお宅があるようなものです。
「あの方にも、この美味しさを味わってほしい」。
その思いが、伝道の原動力です。
秋田という地は、まだ私たちが神様の愛の手紙を届けていない、大切な「お隣さん」なのです。
そこに光を届ける責任と、新たな開拓のビジョンを、私たちは持つ必要があります。
そして最後の三つ目。それは、私たちの足元への使命です。
豊栄キリスト教会は、神様に守られて50年以上続いてきました。
これは本当にすごいことです。
でも、ここで正直に自分たちの姿を見つめてみたいのです。50年もここに建っているのに、この地元・豊栄の人でクリスチャンになった人は、悲しいくらい少ないのが現実です。
私たちは、近所でとてもおいしい料理を出す店を見つけたり、感動した本に出会ったりすると、自然に誰かに教えたいと思います。
それが「伝道」の原点です。
もし私たちが、地元の友達や近所の人に教会のことを話せていないとしたら、それはなぜでしょう。
「変に思われるかな」「宗教勧誘って引かれるかな」と怖がっているのかもしれません。
でも、難しく考える必要はありません。
教会一丸となって地域に進んでいくというのは、無理やり誰かを連れてくることではないんです。
毎朝の「おはようございます」の挨拶を誰よりも明るくすること。
部活や仕事で辛そうな友達に「大丈夫?」と声をかけること。
そしてチャンスがあれば「私、教会に行ってて、そこで元気もらってるんだ」とポロッと話すこと。
それが、あなたの「美しい足音」になります。
50年の歴史にあぐらをかかず、今こそ私たちが、地元のメッセンジャーとして動き出す時なんです。
最後に、もう一度冒頭の映像を思い出してください。
映像に出てきたあの小さな会堂を思い浮かべてください。
あそこで今この瞬間も、メッセージを語っている牧師先生とそのご家族のために祈ってください。
「主よ、彼らを支えてください。彼らの足の疲れを癒やしてください」と。
その祈りは、時空を超えて彼らの力となります。
そして私たち自身も、自分たちの足を用いて、みことばを伝えていきましょう。
それでは、お祈りいたします。
「天の父なる神さま、あなたの御名を讃美いたします。
先ほど映像で見た兄弟姉妹たちの上に、あなたの豊かな励ましがありますように。
そして私たちを、あなたの手紙として、この世に送り出してください。
秋田へ、全国へ、そして隣人へと私たちの目を開かせてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。」