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みなさん、おはようございます。
福音書を初めから学んでいくとき、だれもが必ず乗り越えなければならない山があります。
その名前はケーズ山(さん)です。
どこかの家電量販店みたいなネーミングになりましたが、系図というやっかいな山を前にして、そこで聖書をあきらめてしまう人も数えきれません。
クリスチャンはすでに救いをいただいています。
いわばすでに山を頂上まで登り切ったことのある者たちです。
しかしマタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフだとか、まるで呪文かお経のような人名の羅列の前に、嫌気が刺してしまうこともあるでしょう。
ですがこれらのけったいな文字の羅列も、ケーズ山に咲き誇っているひとつひとつの草花と考えてみたらどうでしょうか。
私たちの目にはただの雑草と見えるようなものにも、立派な学名がついています。
イエスさまの先祖一人一人を雑草にたとえてしまったら、天国で実際に会ったときに怒られるかもしれませんが、これらひとつひとつが、イエスさまから始まって、最後の節、エノシュ、セツ、アダム、そして神に至る、とあるように、頂上を登り切って神に出会う、救いへの道に咲き誇る、美しき草花の一つと考えれば、少し変わってくるものもあるように思います。
ルカはここに長い系図を記しました。
マタイの系図がアブラハムから始まるのに対し、ルカはイエス様から歴史を遡り、「アダム、そして神」へと至ります。
ここには、立派な王だけでなく、無名の人や失敗した人々の歴史も含まれています。
この系図は、イエス様がユダヤ人だけの救い主ではなく、アダムの子孫である全人類、つまり今ここにいる私たち一人ひとりとも繋がっておられることを示しています。
私たちの人生という物語もまた、この系図を通して、神の壮大な愛の物語へとつながっています。
それでは聖書を見ていきましょう。
舞台はヨルダン川。
そこは清らかな観光地ではなく、人生に行き詰まり、救いを求める人々が押し寄せる泥臭い場所でした。
イエス様は、悔い改めるべき罪などないお方であるにもかかわらず、罪人の列に並び、汚れた川の水に身を浸されました。
これは、神が高いところから見下ろすのではなく、私たちの最も低い、惨めな場所にまで降りてこられたことを意味します。
この箇所で最も重要なのは、天からの声のタイミングです。
「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。
この言葉は、イエス様が偉大な業績を上げた「後」ではなく、活動を始める「前」に語られました。
これが神の愛の論理です。
世には「頑張ったから愛される」と考えている子どもたちもいます。
しかし本当の愛は、何をしたかで決まることはありません。
私たちが、イエス・キリストにあってすでに神に選ばれている、そこが大事なのです。
アダムの失敗によって閉ざされていた天が、イエス様の洗礼によって再び開かれました。
これは、私たちが神との関係を回復できる道が開通したことを意味します。
イエス様は「第二のアダム」として、最初のアダムが失った「神の子」としての身分を私たちに取り戻してくださいました。
私たちはイエスさまの後ろに並んでいる者たちです。
神に服従することに失敗したアダムの子孫としてそこに並ぶ時代はすでに終わっています。
いまや私たちは、はじめから神のこどもとして、イエス・キリストのきょうだいしまいとして、神の前に見られています。
「あなたは、わたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。
それは二千年前、イエスにかけられた言葉であると共に、いま、私たちひとり一人にも呼びかけられている言葉なのです。
ここで、実際に私たちの生活を考えてみましょう。
私たちは日々、否定的な声に取り囲まれています。
「もっと頑張れ」「今のままではダメだ」「あの人と比べて劣っている」。
職場での評価や、家庭内での何気ない一言が、鋭い矢のように心に突き刺さることがあります。
特に自分の弱さを覚える時、私たちは自分自身を責め、「自分には価値がない」と思い込んでしまいます。
しかし、今日、聖書はあなたに語りかけます。
あなたの本当の身分は、世間の評価や、過去の失敗によって決まるのではありません。
あなたの身分は、天の父があなたをどう見ているか、その一点にかかっています。
イエス様に語られた「わたしの愛する子」という言葉は、キリストにあるあなたにも向けられています。
聖書のことばそのものから励ましを受けましょう。
イエス様はバプテスマのヨハネの前に、堂々と、しかし謙遜に、ヨルダンの水の中に入られました。
その時、驚くべきことが起きました。
天から「これは、わたしの愛する子だ!」という声が聞こえました。
そのときに、ヨハネにも、罪のない方であるイエスがなぜバプテスマを選ばれたのかわかりました。
それはイエス自身のためではなく、ヨハネ自身を含めて、イエスに続く者たちのためです。
イエス様の洗礼は、私たちの人生という舞台のルールを根底から変えました。
もはや私たちの人生は、人々の評価を気にしながら自分の人生の目的を探し続ける場所ではなくなりました。
すでに私たちは神の子どもという特権をイエスさまによっていただきました。
神という父が、愛する我が子の歩みを喜びを持って見つめてくれる、神の家庭のなかで私たちは生き続けます。
このイエス様の確信ある姿こそが、評価に怯える私たちを解放するのです。
今日、私たちは「愛された者の系図」と「開かれた天」を見つめてきました。
私たちの人生には、確かに泥沼のような時があります。
誰にも言えない失敗や、消えない後悔があるかもしれません。
しかし、天の父は、そんな私たちの姿を見て、顔を背けることはなさいません。
むしろ、イエス様を通して私たちのただ中に降りて来られ、
「あなたはわたしの愛する子だ。あなたの存在そのものが、わたしの喜びだ」と宣言してくださっています。
明日からまた、それぞれの生活が始まります。
評価を気にする社会の中で、心が縮こまってしまいそうになる時があるでしょう。
そんな時こそ、空を見上げてください。天は開かれています。
泥だらけのあなたを抱きしめる神の愛は、今もあなたの上に注がれています。
何ができるかではなく、あなたが誰に愛されているか。
その確信を胸に、顔を上げて歩み出しましょう。
あなたの人生という系図は、神の愛によって、永遠の希望へと繋がっているのですから。
祈りましょう。
「愛する天のお父様。私たちが何をしたかではなく、
ただあなたの子であるがゆえに愛してくださることを感謝します。
どうかこの一週間、あなたの愛の声を、私たちが聞き続けることができますように。
主イエスのお名前によって祈ります。アーメン。」