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みなさん、おはようございます。
子どもの頃、苦手な食べ物というものはなかったでしょうか。
私はマヨネーズがどうしても苦手でした。
学校給食で、生野菜のサラダが出てくると、素っ裸の赤ちゃんが両手を広げているマークの、小さなマヨネーズのミニパックがついてくるのですが、こっそり机の中のお道具箱にそのまま落として、何食わぬ顔をして、まさに生野菜を生だけで食べておりました。
今考えると、なんでそんなめんどくさいことをしていたのだろうと思うほど、マヨネーズは食卓の必需品となっておりますが、まあ若気の至りというやつです。
夏休みや冬休みに入る前になると、そのお道具箱も家に持ち帰らなければなりません。
さぞ箱の中身は、マヨネーズのミニパックで一杯であっただろうとみなさんは想像されると思いますが、いざ箱の中身を確認すると、一杯だったのはマヨネーズだけでなく、他にもいろいろなパックが落とされていました。
具体的に言うのは避けますが、都合の悪いものを一つ、隠すような人間は、他にもたくさんのものを隠していくのですね。
大人になってからもそうです。
余計な対立を避けるために、不満があっても自分の心の中に落とし込んでいた私は、あるとき気づくと、怒り、寂しさ、言えなかった言葉、後悔、そして小さな罪悪感。
いろんなものが心の隅っこにかたまっていることに気づきました。
今日の聖書箇所で開口一番に語られるバプテスマのヨハネの言葉、「悔い改めなさい」は、かつての私のように、自分の心の中を整理できていないがゆえに迷い子になっている者たちに語られています。
しかし決して言葉からイメージされるような厳しい命令ではありません。
「あなたの心が軽くなる道がありますよ」という、優しい案内です。
どうか今日、このヨハネの声を、あなたの心にそっと寄り添う「優しい呼びかけ」として受け取ってみてください。
最初に、1節から始まる記録に注目します。
ルカは、この出来事を歴史の中にしっかりと置きます。
ローマ皇帝ティベリウス、ユダヤ総督ポンティオ・ピラト、頌主ヘロデ、大祭司アンナスとカヤパ・・・・。
当時の人々にとっては、名前を聞くだけで緊張が走るような権力者たちです。
重い税、ローマの支配、宗教指導者の腐敗。
人々は、心の中に深い疲れと不安を抱えていました。
そんな時代に、「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ」とあります。
神さまは、権力の中心ではなく、静かな荒野から新しい働きを始められました。
荒野は、何もない場所です。
だからこそ、荒野で人は自分の弱さと向き合い、神さまの声に耳を澄ませることができます。
ヨハネが立っていたのは、ヨルダン川のほとり。
イスラエルの歴史の中で、人々が新しい一歩を踏み出すときに必ず通った場所です。
そこに再び、神さまの新しい時代が始まろうとしていました。
ヨハネの語る「悔い改め」は、ギリシア語で「メタノイア」。
これは「心の向きを変える」という意味です。
自分を責めることではなく、神さまの方へ向き直ること。
「方向転換」という意味になりますが、むしろ汚れで曇ってしまった窓をそっと拭いて、光が入るようにするようなものです。
ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と語りました。
これは、私たちに「もっと頑張りなさい」とプレッシャーをかける言葉ではありません。
むしろ、「あなたの心が神さまに向き直るとき、自然と実が実っていきますよ」という優しい励ましです。
群衆が「では、どうすればよいのでしょうか」と尋ねたとき、ヨハネはとても具体的に答えました。
「分け与えること」「正直であること」「人を傷つけないこと」。
どれも、特別な人だけができることではありません。
私たちの日常の中で、小さく、しかし確かにできることばかりです。
たとえば、家庭の中で、つい言い過ぎてしまった言葉が心に残ることがあります。
そんなとき、「ごめんね」と一言伝える勇気は、神さまが喜ばれる「実」です。
完璧である必要はありません。小さな一歩で十分です。
職場では、忙しさの中で心が荒れてしまうことがあります。
そんなとき、ヨハネの言葉を思い出してみてください。
「正直であること」「人を傷つけないこと」。
それは、誰かのためだけでなく、自分の心を守るための道でもあります。
また、心が弱っているとき、「私は変われない」と感じることがあるかもしれません。
でも、ヨハネが指し示したのは「もっと力のある方」、イエス・キリストです。
私たちが弱いときこそ、イエスはそっと寄り添い、心の道を整えてくださいます。
私たちの悔い改めは、私たちの努力だけで完成するものではありません。
イエス・キリストが来てくださるからこそ、私たちは安心して心を開くことができます。
悔い改めとは、光の方へ向き直ることです。
もしその光が地上の光であれば、光と反対方向に長い影が生まれます。
しかし私たちは光を地上ではなくて天からいただきます。
天のあらゆるところから私たちに光が注がれるとき、影は不思議と消えるのです。
多くの人々が、悔い改めという言葉を、自分の力で罪を避けることのように捕らえています。
それは自分の影を消そうとする、不可能な試みです。
影を消すのではなく、光を求めるのです。そうすれば影は消えていきます。
具体的に言えば、私たちがどんな罪人であろうとも、それを受け入れつつ、イエス・キリストをひたすら慕い求めるということです。
神さまは、あなたが置かれているその場所で、あなたにしか結べない実を望んでおられます。
焦らなくて大丈夫です。小さな一歩を、神さまと一緒に踏み出していきましょう。
最後に、今日のメッセージをもう一度まとめてみます。
神さまは、当時の権力者たちではなく、荒野にいたヨハネに語りかけられました。
神さまの働きは、いつも静かな場所、小さな場所から始まります。
私たちの人生でも同じです。
誰にも気づかれない小さな忠実さ、静かな祈り、心の奥の小さな決意。
そこに、神さまはそっと近づいてくださいます。
「悔い改め」とは、自分を責めることではありません。
神さまの光の前に、ありのままの自分を差し出すことです。
「主よ、ここに曲がっているところがあります。
どうか整えてください」と祈るとき、聖霊が優しく働いてくださいます。
これから一週間、それぞれの生活に戻っていきます。
忙しさや不安の中で、心が揺れることもあるでしょう。
そのとき、今日の言葉を思い出してみてください。
「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」。
それは、あなたを縛る言葉ではなく、「あなたの心が軽くなる道がありますよ」という神さまの招きです。
どうか、ひとつの親切、ひとつの祈り、ひとつの正直さを大切にして歩んでください。
神さまは、その小さな実を喜んで受け取ってくださいます。
それでは、一緒にお祈りをいたしましょう。
「主よ、どうか私の心に光を当ててください。
曲がったところ、疲れたところを、あなたの優しさで整えてください。
聖霊の助けによって、小さな実を結ぶことができますように。
イエス・キリストを見上げながら、この一週間もあなたと共に歩ませてください。」