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みなさん、おはようございます。
新しい年の最初の主日礼拝となりました。
今日の聖書箇所は、イエスさまが12歳の時の出来事です。
ここは聖書の中で唯一、イエスさまの少年時代について語られている箇所です。
この時までの12年間、そしてこの後、30歳で宣教活動に入られるまでの18年間は、聖書にはいっさい語られていないのです。
しかしこの、いわば「静かな三十年」こそ、イエス様の生涯の中で、とても大切な意味を持っています。
なぜなら、この沈黙の年月には、イエス様の従順、つまり、神様に対するまっすぐな心が、深く深く刻まれているからです。
その象徴が、この12歳の時の神殿での物語です。
イエス様はわずか12歳でありながら、律法学者たちと堂々と議論しておられました。
その知恵は学者たちが舌を巻くほどのものでした。
両親がようやく見つけだしたとき、主はこう言われました。
「どうしてわたしを捜されたのですか。
わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか」。
ここからわかるのは、すでにイエスさまはこのとき、自分が神の子であることを自覚していたということです。
しかしその自覚にかかわらず、イエスさまは神の子としての力や知恵を用いて、生活を楽にしたり、周りの人を驚かせたりすることは一切なさいませんでした。
イエス様は、神様が決めた時が来るまで、力を封じて生きることを選ばれたのです。
イエス様は、30歳になるまで、両親にも従い、大工の仕事をしながらきょうだいの生活を支えました。
もしイエス様が神の力を使えば、どんな建物でも一晩で完成できたでしょう。
しかしイエス様はそうしませんでした。
現場で汗を流し、手に豆をつくり、黙々と働かれたのです。
神の子でありながら、普通の人と同じように働き、学び、成長されました。
この従順の中に、私たちの信仰生活のもといが隠されています。
信仰生活とは、神に従う人生だと言われます。
それは間違いではありませんが、もっと大切なことがあります。
それは、イエスさまが、十字架の死に至るまで、完全な神への従順を実行されたからこそ、イエスさまを救い主として信じる私たちは、すでに初めから神さまに従順な者としてみなされているのです。
一つのたとえを紹介します。
ある人が、一生働いても返せないほどの借金を抱えていました。
そこへある篤志家が現れて、「あなたの借金をすべて返しておきましたから、これからは安心して暮らせますよ」と言ってくれました。
しかしこれは救いについて半分しか表せていません。
なぜなら、借金をすべて返してもらっても、お金がなくなったらまた借金をするかもしれないからです。
イエス・キリストの救いを完全に言い表すには、先ほどの篤志家の言葉はこうなります。
「あなたの借金はすべて返しておきました。
それだけではなく、あなたの口座に、一生使い切れない金額を振り込んでおきました。
これでこれからは安心して暮らせますよ」。
そんなうまい話は、現実にはないでしょう。
しかしイエス・キリストの救いは、現実の常識を越えた、圧倒的なものです。
神が人間に求めること、そのすべてをイエスは実行してくださいました。
そしてその誉れと報いをすべて信じる者に与えてくださり、ご自分は十字架で殺される道を進んで行かれました。
ですからもうどれだけ借金をしても平気なのです。
つまりたとえ私たちがこれからも罪を犯し、神を悲しませることがあっても、すでに私たちは赦しを完全にいただいています。
だから喜んで罪をどんどん犯しましょう、とはなりませんね。
救われた者は、罪を犯したときに聖霊に示されて悔い改めずにはいられない、真の神の子どもとなるからです。
イエスを信じる者は、ただ罪がゆるされただけでなく、罪を恥とし、神さまに心から喜ばれる存在と変えられました。
それがいまの私たちなのです。
イエス様の従順は、十字架の場面だけではありません。
誕生から死に至るまで、すべてが従順の歩みでした。
両親に従われた幼少期、力を封印して働かれた青年期、
父なる神のみこころだけを行われた三年半の公生涯、
そして最後には十字架の死にまで従われたそのすべてで、父なる神を満足させました。
そしてみなさんもご存じのとおり、十字架の前夜、イエス様はゲツセマネという場所で祈られました。
「父よ、もしこの苦しみを取り除けるものならば、そうしてください。
しかしわたしの願いではなく、あなたのみこころをなしてください」と。
十字架の死は、イエスさまにとって、神にのろわれたものとされる、肉体の死よりも苦しいものでした。
しかしそれでも私たちを救うために、イエスさまは十字架への道を選ばれました。
そしてこの父なる神に対する完全な従順によって生み出された義が、私たち信じる者すべてに注がれています。
私たちは、神さまに従い通すことができないことがあります。
信仰を持っていても、弱さや失敗に悩むことがあります。
でも、福音はこう語ります。
あなたが従い通せなかったところを、イエス様が完全に従ってくださった。
だからあなたは決してさばかれない。
あなたはすでに神様に完全に受け入れられている。
だから私たちは勇気を失いません。
日々の小さな喜び、人との関係の回復、困難の中での平安、人生の目的の発見、
これらすべてが、イエス様の従順から流れ、私たちに与えられています。
イエスさまは家畜小屋での誕生から十字架での死に至るまで、一貫して父なる神に従われました。
その完全な従順が、信じる者に注がれています。
今や私たちは、神がイエスさまを見るように、私たちも神から見られている、まぎれもない神の子どもです。
何も気負う必要はありません。
ただ、恵みに感謝しながら歩めばよいのです。
主に感謝しつつ、今週も歩んでいきましょう。