恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「救いの光に生きる」(ルカ2:21-40)

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 みなさん、おはようございます。
今年最後の主日礼拝になります。この一年、どんなことがありましたか?
喜びに満ちた日もあったでしょう。涙を流した夜もあったでしょう。
「どうしてこんなことが起こるの?」と神に問いかけた瞬間もあったかもしれません。
でも、今日ここにいるということは、神があなたを導いてくださった証拠です。
そして、神はあなたにこう語っています。
「行く年、来る年、いつも私と共に歩みなさい。私の光の中で生きなさい。」
今日はルカの福音書2章に記された、イエス・キリストが生まれて間もない頃の出来事を通して、私たちが歩むべき道を考えていきましょう。

 まず22節をご覧ください。
「そして、モーセの律法による彼らのきよめの期間が満ちたとき、両親は幼子をエルサレムに連れて行った」。
 それは律法の決まりで、最初に生まれた男の子は主にささげなければならなかったからです。
もちろん実際に男の子をいけにえにして殺してしまうという意味ではなく、その子の代わりに動物のいけにえをささげるということを意味します。
さらにこの決まりの背景を深掘りすると、もっといろいろな決まりがあることがわかります。
 覚えなくても結構ですが、少し列挙してみます。
まずレビ記12章2節。「イスラエルの人々に告げて言え。
女が身ごもって男の子を産んだときは、その女は七日間、汚れている」。
これがきよめの期間です。さらにレビ記12章6節。
「その子のために一歳の子羊を全焼のいけにえとして、また家鳩か山鳩を罪のいけにえとして持って来なければならない。」
さらにレビ記12章8節。「もし子羊を持つことができないなら、山鳩二羽か家鳩のひな二羽を持って来なければならない。」
イエスさまの両親、ヨセフとマリヤは貧しい家でした。だから、鳩をささげたのです。
 まさに決まりに次ぐ決まり、それが旧約時代の律法の中で生きていた人々の姿でした。
神は律法をモーセに与えたとき、この律法を守り行うならば、あなたがたは生きる、と語られました。
しかしイスラエル人はその律法を守り切れませんでした。
イスラエル人が特別、愚かな民族であったということでは決してありません。
私たちは誰ひとりとして、神さまが求める基準に達することができない、罪人なのです。
イエスさまは、そんな私たちを律法の束縛から解き放ち、まことの救いを与えるために、人として来てくださった。
それが先週の礼拝で語った、クリスマスの意味です。
すべての人の苦しみをご自分も経験するために、私たちと同じく、律法の下に生まれたのです。

 イエスさまは、ただ高いところから「救ってあげるよ」と言う方ではありません。
あなたが孤独を感じるとき、イエスも孤独を知っています。
あなたが貧しさに悩むとき、イエスも貧しさを経験しました。
だからこそ、私たちは安心してイエスに悩みを打ち明けることができます。
イエスが律法に従ったことは、私たちと同じ人間として生きた証拠です。
そして、それはやがて十字架で私たちの罪を背負うための前触れでした。
 後にイエスはこう言われました。
「わたしが律法や預言者を廃棄するために来たと思ってはならない。
廃棄するためにではなく、成就するために来たのである」と。
律法を成就するとはどういう意味でしょうか?
私たち人間は、誰ひとりとして律法をすべて守ることはできません。
姦淫してはならないと頭で知ってはいても、人間の本能はそれを抑えることができません。
そして律法を完全に守ることが救いの条件であるとすれば、誰ひとりとして救われることはできません。
だからイエスさまが、私たちと同じように、人として、律法の下に生まれてきてくださったのです。
 そしてイエスさまは、十字架の死に至るまで、律法を完全に守られました。
いわば、神の救いのテストに唯一合格したのがイエスさまです。
しかしイエスの目的は、その救いを私たち信じる者に分け与えることでした。
決して律法を守り切れない私たちが、イエスさまを信じることで、イエスさまが成し遂げた神の義が私たちに与えられます。
この世のテストでは替え玉受験はできませんが、聖書が教えているのは、私たちの代わりに、イエスさまがすべてのテストを合格してくださって、その結果を私たちに与えてくださったということです。
ですから救いとは、私たちが品行方正に生きているかどうかということとは一切関係ありません。
私たちがどんな人間であろうと、救いの保証は、私たちの正しさにではなく、イエスさまにあるのです。
罪を悔い改めることは大事ですが、罪を犯してしまうからといって救いが取り去られることはありません。
どんな人であろうと、ただ神が私のために死んでくださった、と信じること、それが私たちクリスチャンの、文字通り、自由な生き方なのです。

 その自由な生き方が、あらゆる者たちに与えられる時代を誰よりも喜んだのが、シメオンという老人でした。
25節以降で、彼はこう紹介されています。
「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。
そして、主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと聖霊によって告げられていた。」
その日、シメオンは神殿に導かれ、幼子イエスを腕に抱き、こう言いました。
「主よ、今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。
わたしの目があなたの御救いを見たからです」。
 シメオンは、律法の時代が終わり、信仰による救いの時代が始まることを見たのです。
彼の目には、まだ何もできない赤ちゃんが、世界を変える光として映りました。

 先週、クリスマスのお祝い会でビンゴをしました。
その景品は、教会員それぞれが用意しました。
もしそのプレゼントを用意するとき、「買わなきゃ」という義務感で選ぶと重荷になります。
でも、「喜ばせたい」という気持ちで選ぶと、悩む時間さえ楽しいものです。
信仰も同じです。
義務感ではなく、イエスさまへの感謝から行動する時、喜びが湧いてきます。

 まさにシメオンが賛美した救いとは、
イエスさまを信じた一人一人が、心の底から救いの喜びを楽しむことができる、
私たちクリスチャンの生き方そのものなのです。
そこにシメオンだけではなく、女預言者アンナも加わりました。
彼女もまた近寄って来て、神に感謝をささげ、エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語りました。
アンナの信仰も義務感ではなく、神への深い愛と希望から生まれたものでした。
私たちもそのような信仰を持ちたいと思います。

 今年一年を振り返ってみて、どうでしたか?
私たちの心は、律法的な義務感に縛られていませんでしたか?
それとも、イエスへの感謝と喜びに満ちていましたか?
今週の半ばから、新しい一年が始まります。
私たちはこう決意しましょう。
「イエス・キリストの救いの光に生きる」。
イエスは、あなたの人生に光をもたらす方です。
どんな暗闇も、イエスの光で照らされます。
義務ではなく、感謝と喜びをもって、イエスを伝えていく一週間、そして一年にしていきたいと願います。