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みなさん、おはようございます。
先週の礼拝メッセージでは、今日の聖書箇所の直前、年老いた祭司ザカリヤの前に神の使いが現れる箇所を学びました。
御使いは語りました。
「恐れることはない、ザカリヤ。あなたがたの祈りが聞かれたのだ。
あなたがたに男の子が与えられる。その名をヨハネとつけなさい」と。
このヨハネこそ、救い主イエスに先立って民に悔い改めを語った、バプテスマのヨハネです。
しかしザカリヤは、自分たちから子どもが生まれるという良い知らせを信じることができませんでした。
人が老いていくと、だんだんと肌にシミが浮かんできます。
同じように、長いあいだ、祈りが答えられない、現実が変わらない、という日々が続く中で、彼の心にもしみのようなものが浮かんでいきました。
信仰者という姿は間違いないのですが、見えないあちらこちらに、この世の常識などがこびりつき、いざ神の約束が現れたときに、それをまっすぐに信じることができなかったのです。
しかし考えてみると、ここにも神のあわれみは満ちているのです。
ザカリヤが信じようが信じまいが、ヨハネが生まれることは決定しています。
ザカリヤの心の中もすべて知っておられる神が、あえて彼に御使いを遣わしたのは、ザカリヤと妻エリサベツを、荒野に呼ばわる声となるヨハネを育て上げていくにふさわしい者たちとして練り上げるためでした。
私たちクリスチャンの上に起こる試練は、それにクリアしなければ祝福はいただけない、というものではありません。
祝福はすでに確定している。
しかしその祝福を生かす者となるために、私たちは試練によって整えられていく、それを覚えていきたいと思います。
それでは、聖書を見ていきましょう。57節をお聞きください。
「さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。
近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ。」
エリサベツは不妊の女性であり、しかも年老いていました。
当時のユダヤ社会では、不妊は女性にとって大きな恥とされていました。
「あなたの子孫を祝福する」という神の約束に従えない――つまり、子どもを産めない女性は神の祝福にあずかれないと考えられていたのです。
想像してみてください。
長い年月、周囲の視線にさらされながら生きることの重さを。
親族の集まりで交わされる何気ない言葉が、彼女の心をどれほど傷つけたことでしょう。
「子どもはまだ?」という問いかけが、どれほど鋭い刃となったことでしょう。
しかし、神はその沈黙を破り、エリサベツに命を与えました。
彼女は男の子を産みます。その瞬間、彼女の人生は一変しました。
けれど、ここで注目すべきは「子どもが生まれた」という事実だけではありません。
聖書はこう記します。「近所の人たちや親族は、彼女とともに喜んだ」。
「ともに喜ぶ」――それは簡単なようで、実はとても難しいことです。
私たちは、悲しむ人とともに悲しむことは比較的できます。
しかし、喜ぶ人とともに心から喜ぶことは難しいのです。
そこには小さな嫉妬や比較が入り込んでくるからです。
ある若い夫婦が、長い不妊治療の末に子どもを授かりました。
出産の知らせを聞いた友人の中には、同じく不妊に悩む人もいました。
彼女は涙を流しながらこう言いました。
「本当はつらい。でも、あなたの喜びを心から祝いたい」。
そして、病院に花束を持って駆けつけました。
その姿を見て、母となった女性は言いました。
「この花束は、私の人生で一番重い贈り物だった」。
ともに喜ぶとは、自らの痛みを犠牲とする、イエスに通じる愛なのです。
ザカリヤとエリサベツは、夫婦としては未完成でした。
もし完成していれば、ザカリヤが、子どもが生まれるまで話せなくなる、ということはなかったでしょう。
結婚して長く経つと夫婦は似てくるといいますが、似てきたから完成に近づくというわけでもありません。
ここで、夫婦の一致について考えてみましょう。
日本には、「夫唱婦随」という言葉があります。
夫が提唱したことに妻が従うことが夫婦の理想である、と。
でもそれは一致ではなく妥協かもしれません。
そういえば昔、さだまさしの『関白宣言』なんて歌がありました。
牧師があの歌を聴くと、短い説教の組み立てとして見事だなあと思います。
知らない人もいたら申し訳ありませんが、最初はこういうフレーズです。
おれより先に寝てはいけない、おれより後に起きてはいけない、めしはうまくつくれ、いつもきれいでいろ、
とまあ、とにかくめんどくさい男だなあというところから始まりますが、だんだんと歌が変わっていって、
「俺より先に死んではいけない」「おまえのおかげで良い人生だったと俺が言うから、必ず言うから」とだんだん、ほろりとする内容に変わっていきます。
ただ昭和の時代、あの歌にだまされて夫婦の一致を取り違えた人々がどれだけいたことでしょうか。
一致とは、同じ方向を見て歩むことです。
では、まったく異なる二人が一致することは可能でしょうか?ザカリヤとエリサベツの姿が答えです。
彼らは困難の中で一致しました。
ザカリヤは神の言葉を信じず、舌がもつれ、話せなくなりました。
しかし、エリサベツは「いいえ、この子の名はヨハネとつけなければなりません」とはっきり宣言しました。
それは、言葉を話せないはずのザカリヤの思いが、エリサベツにしっかりと伝えられていた、という証しでした。
人々がザカリヤに確認すると、彼も書き板に「彼の名はヨハネ」と力強く書きました。
二人は神の御心に従うことで、一つにされたのです。
最後にある夫婦の話です。
夫は仕事一筋のサラリーマンでした。60歳で定年を迎えました。
今までは家庭のこと、教育のこと、介護のこと、すべて奥さんに任せていたので、お詫びと感謝をこめて、50万円のハンドバックをサプライズでプレゼントしたそうです。
奥さんはさぞ喜んだことでしょう。
と思うのは男性だけで、奥さんはそれを受け取ったとき、喜ぶどころか困惑の表情を浮かべました。
そしてこう言いました。
なんであなたはいつも私に相談しないで、自分だけで決めてしまうのか、と。
しかし夫には、50万円のハンドバックをプレゼントされて喜ばないという妻の気持ちがわからない。
すると奥さんは言う。
「私にはもっとほしいものがある。それをどうして知ろうとしてくれないのか。
話を聞いてくれないのか」と。
二人のやりとりは平行線でした。
そんな夫婦が変わったのは、夫が突然病に倒れ、入院したときでした。
子どもが生まれて以来、はじめて二人の時間が持てたと、二人とも思ったそうです。
夫は「退院したらもっと話をしたい」と言い、妻は「私もあなたの話をもっと聞きたい」と言いました。
困難の中で、二人は同じ方向を見始めたのです。
教会もまた、かけがえのない共同体という意味では、夫婦と同じようなものです。
しかしそれぞれの信仰観や教会観は微妙にずれている、ということはざらにあることです。
だからこそ私たちは同じみことばを聞き、分かち合います。
それぞれの人間的な違いを個性として受け止めながらも、信仰観や教会観を独りよがりではなくて聖書そのものに近づけていくための営み、それが信仰生活です。
イエス・キリストに繋がっている私たちは、一致に向かって歩んでいる途上にあります。
そこに困難は必ず生まれますが、その困難こそ、私たちに喜びを与えてくれるものです。
いよいよ来週の主日は、主の降誕を迎える日です。
この一週間も、喜びの中で歩んでいきたいと願います。