恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「暗やみに光さすとき」(イザヤ9:1-7)

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 みなさん、おはようございます。

 本日の聖書箇所は、イザヤ書の一節からの招きです。
私たちはここで、「暗やみの中にいる民に光が差す」という約束を聞きます。
それははるか昔、あるいはどこか遠くにいる人々のことを指しているのではありません。
神の光をいただいていながら、いまも自分の我に引きずられて歩んでいる、私たちをも指しているのです。
イザヤの言葉は時を超え、私たち一人ひとりの人生に直接語りかけてきます。
今日はその言葉を丁寧に読み解き、私たちの現実にどのように適用されるのかを共に考えていきたいと思います。

「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。
先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた」。

 この箇所に出てくるゼブルン、ナフタリ、ガリラヤという地名は、イザヤが語った当時、すでに荒廃し、人々の生活は破壊されていました。
町は残っていても、そこに住んでいた人々は捕らえられ、連れ去られ、代わりに異邦の民が移住させられ、民族の純血や誇りは傷つけられました。

 しかし忘れてはならないのは、イザヤが現実の暗やみを否定していないことです。
彼は現実を直視しています。
町は荒れ、人々は恥を受け、希望は奪われていました。
それでも彼は、「やみがなくなる」と宣言します。
現実の苦しみから目を背けず、そのうえで、神の圧倒的な光がやみを飲み込むのだと約束しています。

 注目すべきは、ここでイザヤが「受けた」「見た」「照った」といった過去形で語られている点です。
現実は暗く、未来は不透明であるにもかかわらず、イザヤはあたかもその光景がすでに起こったかのように語ります。
これは単なる詩的表現ではありません。
信仰から生まれる、揺るぎない確信の言葉です。

 私たちも同じように、苦しみの中にいるとき、未来を「まだ来ていないもの」として待ち続けることが多いでしょう。
しかし聖書は、神の約束が時を超えて「すでに」私たちの上に働いていることを教えます。
イザヤの言葉は、信仰とは未来を待つだけでなく、神の約束を現在の現実として受け取ることであると示しています。

 私自身の経験を一つ分かち合います。
30年前、私は病院のベッドで点滴につながれ、動けないままクリスマスを迎えました。
窓の外に見えるのは隣の病棟の壁と、わずかに差し込む太陽の光だけでした。
母が「来年は家で迎えられるよ」と言ってくれたとき、私は力なく頷きました。

 人は時間の中で生き、時間に希望を託します。
苦しみがいつまで続くのかを考え、時が来れば変わるだろうと期待します。
しかし、神は時間を超越しておられます。
私たちが「いつか」と待つ間に、神にとっては暗やみも光も一瞬の出来事に過ぎません。
だからこそ、神の視点をいただくことができれば、夜明けの光はすでに私たちの上に差し込んでいるのです。

 私の病床でのクリスマスも、後になって振り返れば、神の導きと回復の一部であったことが分かりました。
苦しみのただ中にいるときでも、神の永遠の視点は私たちに希望を与えます。

 同じイザヤ書には、神のことばについて、次のように書かれています。
「人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。
主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。
まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。
しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ。」

 神のことばは、単なる道徳的教訓や慰めの言葉ではありません。
それは神ご自身の宣言であり、時を超えて成就する力を持っています。
イザヤが「光が照った」と過去形で語ったのは、神のことばが既にその力を持っていると確信していたからです。

 しかし問題は、その確信をどうやったら私たちは自分のものにできるのか、ということでしょう。
その秘訣の一つは、「希望」についてのイメージを変えることです。
多くの人は希望を「未来の良い出来事が起こること」としてのみ捉えます。
しかし聖書は、希望とは、良いことが待っている未来のことを言うのではなく、神の約束が既に働いている、いま現在のことを言っています。
暗やみの中にあっても、神の光はすでに差し込んでいると信じることが、私たちの心を支えます。
具体的には、苦しみや不安に直面したとき、まず聖書の約束に立ち返る習慣を持ちましょう。
祈りの中で神の言葉を思い起こし、神の約束を口に出して告白することは、信仰の目線を「未来」から「現在」へと移す助けになります。

 その神のことばが、私たちすべての人類に対して、福音を告げています。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」
 この預言は、単に未来の出来事を予告するだけではありません。
神が人となって来られるという驚くべき真実を示しています。
救い主は人として生まれながら、神の性質を持ち、私たちのために十字架の道を歩まれました。
イエス・キリストはまさに「平和の君」として、私たちの罪と死に対して勝利を宣言されました。
イザヤの預言は、単なる歴史的予告ではなく、私たち一人ひとりに向けられた招きです。
イエスは「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」として来られ、私たちのために命を捨て、復活によって勝利を成し遂げられました。

 この方を救い主として受け入れるとき、私たちは救われます。
そして救われるとは、人生の支配権を神に委ねることです。
罪恐れ、孤独に支配されているならば、その支配から解放される道がここにあります。
教会はその出会いの場であり、互いにその喜びを分かち合う者たちが集まる場所でもあります。

 ですから、今日ここにいる皆さんに問いかけます。
あなたはどこに希望を置いていますか。
地上の状況にですか、それとも永遠の神の約束にですか。
もしまだ救い主との出会いを経験していないなら、今がその時です。
もし既に信じているなら、日々の生活の中でその希望を実践し、周囲に光を放つ者となりましょう。
それでは、お祈りをいたします。

 神様、私たちの暗やみを知っておられる方、あなたのことばによって私たちに光を与えてくださることを感謝します。
苦しみの中にある者、傷つき疲れた者、希望を見失いかけている者に、どうかあなたの光を見させてください。
私たちがあなたの約束に立ち、日々の歩みの中でその希望を生きることができますように。
救い主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。