恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「キリストの足跡に続く道」(マルコ8:27-38)

真ん中の再生ボタンを押さず、左下の「見る▶YouTube」を押すと聖書朗読およびメッセージの開始タイミングに直接ジャンプできます

ここをクリックすると説教原稿が出てきます

 みなさん、おはようございます。
信仰の歩みは、螺旋階段のようだとよく言われます。
一周回っても、見える景色は前と同じ。進んでいるのか不安になる。
でも、立ち止まらずに歩き続ければ、確実に高みに近づいている。
そんな歩みが、私たちの人生にもあるのです。
クリスチャンであっても、時にこう思うことがあります。
「何年も信じているのに、なぜこんなに弱いのか」。
けれど、弟子たちも同じでした。奇跡を見たかと思えば、パンのことで言い争う。
浮き沈みの激しい歩み。でも、確実に成長していたのです。
だから、私たちも希望を持っていい。信仰は、少しずつでも前に進んでいるのです。
今日は、イエスさまが弟子たちを時に諫め、時に諭しながら、十字架へ続く道へと導いてくださる信仰のすばらしさを一緒に学んでいきたいと思います。

 それでは、今日の聖書の舞台を丹念に見ていきましょう。
舞台はピリポ・カイザリヤです。
カイザルというのはローマ皇帝のことですが、「ピリポ・カイザリア」とは、「ユダヤ人の王ピリポから、ローマ皇帝へささげられた町」という意味です。
一面、田んぼしかなかっただだっ広い所に、突然、ローマ本国にも負けないような最先端の町が作られました。
それがピリポ・カイザリア、ローマ皇帝の権力と富を象徴する町。
大理石の神殿、巨大な劇場、豊かな生活がそこを訪れる者たちには約束されました。
しかしたった一つだけ、条件がありました。
ローマ皇帝を、己の神として拝むことです。

 イエスが弟子たちをこの町に連れてきたのは、もちろんローマ皇帝を拝ませるためではありません。
むしろその逆です。
皇帝を拝めば、すべての快楽が手に入ることを約束しているこの場所で、あなたがたはわたしをだれだと言いますか、と聞きました。
その時彼らは、こう答えたのです。「あなたはキリストです」。
「キリスト」とは、救い主という意味。
そして、王や皇帝にまさる、まことの神の子という意味です。
彼らは、目に見える富や権力ではなく、目に見えない神の栄光を選んだのです。

 ピリポ・カイザリヤの町は、弟子たちにこう語りかけていたでしょう。
「おまえたちは、いつまでそんな貧乏たらしい、自称神の子につき従っているのか」。
しかし彼らは、その声に抗いました。
あなたはキリストです!と目の前のイエスだけを見つめながら。
現代の私たちも、同じ問いに直面します。
何を選ぶのか。目に見える成功?それとも、永遠に価値あるもの?
SNSで「いいね」を集めること、安定した収入、快適な生活。
それらは悪いものではありません。
でも、それが人生のすべてになってしまうなら、私たちは本当に大切なものを見失ってしまうのです。

 しかしじつは、ここで弟子たちが考えていたキリストと、イエスさまご自身が考えておられたキリストのあいだには、大きな食い違いがありました。
弟子たちが考えていたキリストとは、この地上の王としてローマ帝国さえも打ち倒し、イスラエルを再興してくださるお方です。
あらゆる剣や弓矢もはねのけ、どんな者も傷一つ与えることができないような、力と栄光に溢れたお方、それが彼らの信じていたキリストでした。
しかしイエスは弟子たちにこう語られました。31節、「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない」と。

 この言葉は、弟子たちにとって衝撃でした。
勝利ではなく、敗北のように見える道。彼らは混乱します。
それも当たり前、なぜなら、神の救いの計画は、人間の常識とは違うからです。
力ではなく、犠牲によって救いがもたらされる。
その道を、イエスは選ばれました。
現代の私たちも、同じように「苦しみを避けたい」と願います。
問題のない人生、平穏な毎日。
しかし、聖書は別の箇所で、「苦しみを通してこそ希望は生まれる」と語っています。
苦しみは、無意味ではありません。
神はそれを用いて、私たちを成長させるのです。

 しかしこのときの弟子たちは、みな未熟でした。
一番弟子であるはずのペテロでさえそうでした。
ペテロはイエスをわきへ連れて行き、「そんなことがあってはならないことだ」と諫め始めたのです。
それは、彼なりの、師弟愛であったのでしょう。
しかしその師弟愛は、師であるイエス自身から、極めて厳しい言葉で否定されてしまいました。33節をご覧ください。
「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

 なんと厳しい言葉でしょうか。
しかしその厳しさの下にある、十字架への道を見落としてはありません。
ペテロは、イエスを守りたいという人間的な思いにとらわれていました。
しかし神の視点は違います。
救いは、十字架を通してしか成し遂げられないのだ。
私たちも、時に「人のこと」を優先してしまいます。
居心地の良さ、現状維持。それが、神のことを見失わせるのです。

 礼拝説教の中で、愛や恵みを語る時には喜んで聞くけれども、さばきや地獄については、どこか居心地の悪さを感じることがあります。
それは、クリスチャンが説教を聞くとき、いつも自分のことよりも、教会に来ている求道者の人がこの説教を聞いたら、どう思うだろうかということを考えて、もっとマイルドに語ってくれたら良いのにとか思ってしまうのです。
そしてもし、たまたまその日の礼拝はクリスチャンだけで求道者の人はだれもいないのに、さばきや地獄について聞くとそわそわしてしまうのは、私たちの頭の中がパターン化してしまっているのです。
福音を必要としているのは自分自身なのに、すぐに求道者とか子どものことばかり考えてしまうわけですね。

 「下がれ、サタン」とは、ペテロがサタンに取り憑かれていたという意味ではなく、あらゆる信者の中にふつふつと生きている、人にとっての受け入れやすさを神のことばの厳しさよりも優先する、その心です。
そして神のことばの厳しさは、イエスさまの次の言葉によって頂点に達します。34節をご覧ください。
「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」
 十字架刑は、当時もっとも残酷な刑罰でした。
死刑囚は、自分がかけられる十字架を担いで刑場まで歩き、群衆の嘲りを受けながら処刑されます。
イエスは、その道を歩まれました。
そして、私たちにも同じ道を歩むように招いています。
このとき弟子たちと一緒に呼び寄せられた群衆の多くは、パンを求めてイエスについてきました。
でも、弟子は違います。十字架を背負ってついていく。
それは、苦しみを避けない生き方です。
現代で言えば、価値観の衝突、人間関係の緊張、時に孤独。
それでも、イエスに従う道を選ぶこと。それが、まことの弟子の姿です。

 「自分を捨てる」とは、単なる自己否定ではありません。
ギリシャ語では、一度きりの決定を意味します。
イエスを信じたとき、私たちはすでに自分を捨てたのです。
なのに、また拾ってしまいます。欲望、安心、承認欲求。
あまりにも多くのものを抱え込みすぎて、十字架を背負えなくなっていることはないでしょうか。
イエスさまは36節でこう問いかけておられます。
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。
自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか」。
この問いは、現代にも響きます。成功、富、快楽。
それらは本当に、命と引き換えにできるほど価値があるのでしょうか?
 後にペテロは手紙の中でこう書き残しています。
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された」(「ペテロの手紙 第一」2章21節)。
苦しみは、神に喜ばれることです。なぜなら、その先に栄光があるからです。
イエスが歩まれた道を、私たちも歩みます。
それは決して楽な道ではないでしょう。
でも、その道を最後まで歩き続けたとき、私たちは永遠のいのちのすばらしさに気づくことでしょう。

 この一週間、あなたはどんな十字架を背負いますか?
それは、人間関係の中での誠実さかもしれない。誘惑に抗う勇気かもしれない。
小さな決断の積み重ねが、キリストの足跡に続く道になるのです。