恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「岩の上に家を建てよう」(マタイ7:24-27)

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 みなさん、おはようございます。

 先週の礼拝メッセージでは、旧約聖書のエズラ記から、神殿の再建工事について語らせていただきました。
神殿の基礎ができあがったとき、老いも若きも、あらゆる民が、ある者は喜びの涙を流し、ある者は悔い改めの涙を流しながら、叫び声をあげました。
いま、私たちの教会堂の工事も、基礎工事をほぼ終えました。
聖書と違って、実際の工事に携わったのはレビ人ではなくて大工さんたちですが、私たちも神さまに感謝しつつ、教会堂が建て上げられていくことを喜び、祈っています。
今日の礼拝メッセージでは、旧約聖書から新約聖書にまた戻り、イエスさまの有名なたとえ話、家を建てた二人の人の姿から、私たちの人生に必要なものを一緒に考えていきましょう。

 みなさん、想像してください。
大雨が降り、川があふれ、強い風が吹き荒れる中、二つの家があります。
一つは岩の上に建てられた家、もう一つは砂の上に建てられた家。
どちらが倒れないでしょうか。
イエス・キリストは、このたとえ話の直前に、みことばは聞くだけではなく、実践してこそ意味があるということを語っておられます。
そのうえで、聞くだけではなく実践することを岩を掘りぬいてそこを家の礎とすることにたとえて、こう語られました。
「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。
岩の上に土台が据えられていたからです」と。
このたとえ話は、私たちの人生に深い意味を持っています。
今日は、この言葉から「揺るがない土台を持つ人生」について、一緒に学んでいきたいと思います。

 日本には、「四季」という言葉があるように、一年は春夏秋冬、四つの季節に分けられます。
春から夏へ、夏から秋へ、という次の季節へは、少しずつ変わっていきます。
一方、聖書の舞台である、イスラエルという国は、乾期と雨期がはっきり分かれています。
乾期にはほとんど雨が降りませんが、雨期になると、空の巨大な水タンクが一気に開いたような豪雨が襲います。
しかも地面は岩や石ばかりで、水がしみこまず、洪水になります。
家を守るためには、岩まで深く掘って土台を作るしかありません。
時間もお金もかかりますが、それを怠れば、家は必ず流されます。
現代の建築では、基礎工事や、地盤補強工事をしっかりと行うことは常識ですが、イスラエルでは何千年も前から、家を建てるときに必死で岩まで掘りました。
なぜでしょうか。嵐が必ず来ることを知っているからです。
嵐に立ち向かうには土台が必要です。これは私たちの人生にも当てはまります。
嵐は必ず来ます。病気、失敗、悲しみ、死…避けられない現実です。
だからこそ、しっかりした土台が必要です。

 みなさんの人生の土台は何でしょうか。
お金でしょうか、仕事でしょうか、健康でしょうか。
それらは、多くの人々が、人生に必要なものと考えています。
ですから、これらがもし失われたときのために、保険が用意されています。
健康保険、盗難保険、失業保険、などなど。
しかし保険そのものは嵐に耐えられる土台にはなりません。
どんなに高額の保険を、あらゆるものにかけていたところで、私たちを支えるものはお金そのものではないからです。
事故や病気になったとき、どんなにお金があっても不安な人もあれば、一切のお金が入ってこなくても、平安な人たちがいます。
それがクリスチャンです。しっかりした土台を持っている人たちです。
みなさんのことです。

 クリスチャンが平安を知っているのは、この人生にやがて訪れる「終わり」を正しく理解しているからに他なりません。
聖書は、人生には必ず「終わり」があると教えているからです。
終わりを考えない人は、不安を抱えたまま生きます。
しかし、終わりを見つめる人は、安心して人生を楽しめます。
伝道者の書12章13、14節にはこう書かれています。
「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
神はすべてのわざをさばかれるからだ。」
 最近「終活」という言葉をよく聞きますが、多くは家族に何を残すかという話です。
でも本当に大切なのは、神の前に立つ準備です。
あるクリスチャンの高齢者がこう言いました。
「死は怖くない。イエスさまが待っていてくださるから。」
この言葉には深い平安があります。
では、どうすれば、神の前に立つ準備をすることができるのでしょうか。
聖書の答えは、シンプルです。準備などしなくてもよい。
この人生の中で、唯一、イエスを信じるという選択をしたならば、あとは特別な準備がなくても、すべては神が導いてくださる、と。

 お金や人間関係は死後に持っていけません。必要なのはイエスを信じることです。
イエスを信じるとは、イエスの言葉を聞いて、それを行うことです。
これは単なる道徳ではありません。
イエスは私たちを愛し、十字架で罪の代わりになってくださいました。
キリストの十字架が、私のさばきの代わりであったのだと信じるなら、もはや私たちは、死を恐れる必要がなくなります。
神の前でさばかれることはありません。さばきはすべてイエスが受けてくださったからです。
むしろ死は、私たちがイエスさまと一緒に生きてきた、よい報いを受け取ることができる幸いへの旅立ちの時となります。

 昭和29年、北海道で大型台風があり、洞爺丸という船が沈みました。
千人以上が亡くなる中、カナダから来た宣教師たちが乗っていました。
彼らは恐れる人々を励まし、救命具を配り、最後まで助け続けました。
ある宣教師は自分の救命具を学生に譲りました。ヨハネ15章13節にはこうあります。
「人がその友のために命を捨てること、これより大きな愛はない。」
なぜそんなことができたのでしょう。イエスの愛を知っていたからです。

 あり得ない仮定ではありますが、もしこの洞爺丸の乗客が、この宣教師と、その学生の二人しかおらず、そして救命具は一人分しかなかったとしたら、この宣教師はどうしたでしょうか。
おそらく、同じことをしたでしょう。
そしてイエス・キリストも同じです。
もしこの世界に、人間は私一人しかいなかったとしても、その私のためだけに、十字架にかかって死んでくださったでしょう。
私という人間が社会に必要だとかいう理由など一切なく、私が今ここで自分の罪におぼれかけているという事実のゆえに、私のために、いな、あなたのために、十字架にかかってくださいました。

 ローマ8章38~39節にはこうあります。
「死も、いのちも、あらゆるものも、私たちを神の愛から引き離すことはできません。」
イエスを信じる人は、死んでも生き続けます。
仏教や神道を含め、あらゆる宗教に共通して描かれている、死後のさばきを一切、恐れる必要はありません。
イエスがすべてを引き受けてくださったことを心から信じるときに、私たちの人生は、そのときから恐れが消えていくのです。
祈りましょう。主よ、私の人生の土台をあなたに置きます。
嵐が来ても倒れない人生を歩ませてください、と。