恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「十字架の先にある家へ」(マルコ8:22-26)

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 みなさん、おはようございます。
今日は11月の最初の日曜日ですので、イエス・キリストの十字架の贖いを文字通りかみしめながら、パンとぶどう汁をいただきました。
言うまでもなくパンはイエスさまの肉、ぶどう汁はイエスさまが流された血を表しています。
大学生の頃に聞いた、ある牧師の説教の中に、今も忘れられないフレーズがあったことを思い出します。
その先生は、あろうことか、「イエス・キリストは三流の救い主だ」と言ったのです。
貧しい者たちのために汗を流し、悲しめる者のために涙を流し、あらゆる罪人のために血を流した、と。
その意味では、私たちが先ほどいただいたぶどう汁は、イエスさまの血だけではなく、汗も涙も含んでいます。
ですからちょっとしょっぱいと感じた人もいるかもしれません。

 二千年のあいだ、教会はこの聖餐式を守り続けてきました。
数年前のコロナウイルスの世界的流行のときには、どうしても中断しなければならないことがありましたが、いまはこうしてまた聖餐を守ることができています。
今日もまた、この聖餐礼拝を通して、神さまが私たちのために死なれたという恵みを感謝していきたいと思います。

 さて先週の聖書箇所の中で、イエスは弟子たちにこう問いかけておられました。
「まだわからないのですか?悟らないのですか?心が固く閉じているのですか?目がありながら見えず、耳がありながら聞こえないのですか?」これは、弟子たちがイエスの奇跡を目の前で見ていながらも、その意味を理解できていなかったことに対する叱責です。
しかし叱ってはいても、そこには深い愛と期待を込めて、彼らが真理に目を開いてほしいと願っておられました。
そして今日の聖書箇所に登場する盲人のいやしは、弟子たちが少しずつ霊的に目が開かれていくことの予告編とも言えます。

 この盲人がいやされる記録は、イエスさまが今までいやした人々のパターンから少し外れています。
一瞬で、あるいは即座に、いやされません。
イエス様がその手を彼の目に触れる。すると少しだけぼんやりと見えるようになる。
そこでもう一度イエス様が手を触れる。
するとだんだんと、この盲人の視界ははっきりしてきて、やがて完全に見えるようになる。
一瞬ではなく、だんだんと見えるようになっていく。
それは、じつは弟子たちの信仰の姿でもありました。
彼らはまだぼんやりとしか見えません。
しかしこの盲人が、見つめ続けることで視界がはっきりしていったように、弟子たちもまたイエスを見つめ続けることで、自分たちが弟子である意味をはっきりと見いだしていったのです。

 あるクリスチャン青年の話をします。
彼は長い間、性的誘惑にあらがえない自分の心の弱さに苦しみ続けていました。
その中で教会に導かれて、洗礼を受けたのですが、しかしクリスチャンになってからも、誘惑に負けてしまうことが多くあり、「自分は本当に救われたのだろうか」と悩み続けていました。
聖書を読んでも、祈っても、心が満たされない。
そんな彼が、ある日、教会の奉仕で特別養護老人ホームを訪問しました。
寝たきりの女性が彼の手を握りながらこう言いました。
「あなたが来てくれて、神様が私を忘れていないと感じました」。
その言葉に、彼の心が震えました。
こんな自分でも、この方を励ますために用いられたのだ、ということを確信しました。

 この青年のように、自分の成長が遅いと思っても、自分を責める必要はありません。
信仰はすぐに完成するものではありません。
ぼんやりとした視界が、少しずつはっきりしていくように、時間をかけて育っていくものなのです。

 もう少し、聖書を細かく見ていきましょう。
イエスがこの盲人の目に触れると、彼は「人が木のように歩いている」と言いました。
これは何を表しているのでしょうか。
彼の目に映った世界は、人の温かい体温が感じられる世界、血の通った世界ではありませんでした。
彼の視界には、確かに人が歩いていました。
しかしそこに表情はありません。人のふっくらとした体も見えません。
それは木のようです。
顔もなく、体温もなく、言葉もなく、黒い棒がただ歩いているような世界でした。
しかしじつはそれが、信仰者にだけ見える、この世界と、そこに生きる人々の真の姿です。
人々は確かにこの世界を歩き回っています。
しかし人としてではなく、木のように。やがては朽ち果て、簡単に折れてしまう木のように。
血も肉も通っていない、骸骨よりももっともろい姿で。
目が開かれた盲人が見た世界、それは顔のない木人間たちが歩き回る世界でした。
木人間たちは、夢と楽しみを求めて歩き回ります。
しかし彼らは朽ち果てるもののために歩き回り、やがては自分自身が朽ち果てます。

 この人がじっと見ていると、やがて木人間の姿は普通の人間のようになり、はっきりと見えるようになりました。
しかしその後の26節も不思議な言葉です。
イエスは彼を家に帰し、「村には入っていかないように」と命じたとあります。
普通、家は村の中にあります。
村の中に入ることなく、家に帰ることそのものが無理じゃないかと思います。
しかしここでは、そのような文字通りの意味にではなく、霊的な適用として考えるべきでしょう。
「村」とは自分が罪人であることに気づかない人々が生きる世界、そして「家」とは、罪人であることに気づき、救いを求める者が帰るべきところです。
私たちはこの世で生きている以上、「村」にも「家」にも身を置かなければなりません。
しかし心を置くべきところは、村ではなく、「家」、私たちが帰るべき場所にあるのです。

 聖書は、すべての人が罪を持って生まれてくると教えています。
そしてその罪は、自分の力ではどうすることもできません。
しかしイエス・キリストが十字架で命を捧げてくださったことで、私たちはその罪から解放される道が開かれました。
しかし勘違いしてはいけません。
救いとは、この世で成功するための道具ではないのです。
むしろこの世がやがて必ず朽ち果てていく世界であることを、救いははっきりと示します。
私たちが向かうべき先は、その朽ち果てる世の先にある、永遠の御国です。
それが、入ってはならない「村」と、帰って行くべき場所である「家」が表しているものです。

 ある青年は、「自分は世の中に必要とされていない人間だ」というのが口癖でした。
そんな彼が、たまたま誘われた教会の礼拝説教の中で、「イエスはあなたのために命をささげてくださった」と聞いたときに涙が止まらなかったと言います。
しかし家に帰って、家族にその話をしても、そんな話で泣くなんてバカじゃないの、と言われただけだったそうです。
しかし彼はその後も教会に通うようになり、やがてクリスチャンになり、牧師になりました。

 聖書は、この世の価値観や、むなしい世界観しか知らない人々にとっては、まさに愚かなことばに聞こえるものです。
しかしそのような人々の中にも、神は彼のようにみことばによって変えられ、救われる人を備えておられます。
私たちひとり一人が、そうなのです。
皆さん、イエス・キリストは、あなたのために十字架にかかりました。
あなたがどんな過去を持っていても、どんな疑問を抱えていても、イエスはあなたを招いています。
信じる者には、新しい人生と、永遠の「家」への道が用意されているのです。
これから始まる一週間、一ヶ月も、私たちは目を上げて、神の家を目指して歩んでいきましょう。