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みなさん、おはようございます。
今日はマルコ福音書の中から、神さまが私たちに与えてくださった恵みについて、振り返っていきたいと思います。
二ヶ月くらい前でしょうか、私が神学校時代に二年間通っていた、千葉のある教会の婦人役員さんからお手紙が届きました。
約30年かけて、一億円近い会堂返済を完了しました、感謝しますという内容でした。
一時は返済が滞ってしまい、売却を検討したこともあったとも書いてありました。
しかしその役員さんは、当時から私たち神学生に、神さまが始めてくださったことだから、とよく仰っていました。
そして手紙の最後には、「次は先生の番ですね」と書かれてありました。
私たちは30年とまでは行きませんが、しかしこれから10年間は返済が続きます。
でも私たちは決して不安に思う必要はありません。
私たちの目には見えなくても、確かに神の計画が始まっているのです。
しかし多くの人々は、「確かな証拠」や「目に見える結果」を求めます。
そして保証がないと不安になったり、証拠がなければ人の話を信じられない、ということもあります。
ある高校生が、某一流と呼ばれる国立大学を目指していました。
しかしなかなか勉強の成果が現れず、「神さま、あなたが本当にいるなら、合格できるってサインをください」と祈ったそうです。
しかしサインはなく、不安ばかりが募っていきました。
その不安を紛らわせるために、真面目な彼はいつも部屋の掃除をしていたそうです。
ゲームやマンガだと、逃げている罪悪感があるのですが、部屋の掃除だと、時間を有効に使った、という達成感が生まれるからでした。
しかし勉強しないで掃除ばかりしていたので、大学は落ちてしまったそうです。
友人からは「片付け名人」と呼ばれるようになったので悪いことばかりではなかったようですが、今日の聖書箇所では、パリサイ人たちがイエスに「天からのしるし」を求めています。
彼らは、イエスが本当に神から遣わされた者かどうかを確かめるための「証拠」を求めました。
しかし、イエスはその願いに応えず、「この時代には、どんなしるしも与えられません」と言って、彼らのもとを去りました。
イエスは、彼らの心の中を見抜いていたのです。
彼らは信じるためにしるしを求めたのではなく、イエスを試すために、疑いの心で求めていたからです。
パリサイ人たちがやったことは、子どもがその友だちに、「本当に友だちなら、これをしてみせて」と言って、相手を試すようなものです。
信頼がないところに、真の関係は生まれません。
イエスは、神との関係は「信頼」によって築かれるものであり、目に見える奇跡だけに頼る信仰は、根が浅いことを知っておられました。
次に、弟子たちとのやりとりが続きます。
彼らは舟の中でパンが一つしかないことに気づき、不安になります。
するとイエスは、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に気をつけなさい」と言われました。
この「パン種」という言葉は、パンをふくらませる酵母のことですが、ここでは「心の中に広がる考え方」や「影響力」のたとえです。
イエスは、パリサイ人やヘロデのように、神を信じず、自分の力や地位に頼る心に注意しなさいと教えたのです。
しかし弟子たちはその言葉の意味を理解できず、「パンが足りないからそんなことを言ったのだ」と勘違いしてしまいます。
イエスは彼らに、「まだ悟らないのか」と問いかけ、過去に五千人、四千人にパンを分け与えた奇跡を思い出させます。
この場面を読んで、ある教会の青年の話を思い出しました。
彼は、あるとき仕事を失い、生活が苦しくなりました。
けれども、ふと過去を振り返ると、困ったときに誰かが助けてくれたこと、必要なものが与えられてきたことを思い出しました。
「ああ、神さまはいつもそばにいてくださったんだ」と気づいたとき、彼の心に平安が戻ったそうです。
イエスは、弟子たちに「思い出しなさい」と語りかけています。
神さまがどれほどの恵みを与えてくださったかを、忘れてはいけないのです。
この箇所は、現代を生きる私たちにも深い問いを投げかけています。
私たちは、神様や人生の導きに対して、「もっとはっきりしたサインが欲しい」「確かな結果が見えないと信じられない」と思うことがあります。
しかし、イエスは言います。
「あなたは、すでに多くの恵みを受けてきたではないか。
なぜそれを忘れてしまうのか」と。
ある主婦の方が、こんな話をしてくれました。
子どもが病気になり、毎日不安でたまらなかったとき、「神さま、どうしてこんなことが起こるの?」と祈ったそうです。
でも、近所の人が食事を届けてくれたり、教会の人が祈ってくれたりして、「ああ、神さまはちゃんと働いておられる」と感じたといいます。
信仰とは、目に見えるものに頼ることではなく、見えないものに信頼することです。
パンが一つしかなくても、神が共におられるならば、必要は満たされる。
過去に与えられた恵みを思い出し、今も神が働いておられることを信じる。
それが、信仰の歩みです。
皆さんの人生にも、きっと「しるし」はすでに与えられているはずです。
困難の中で助けられた経験、思いがけない導き、誰かの優しさ。
それらはすべて、神が共におられる証です。
あるお年寄りの方が、こんなことを話してくれました。
「若いころは、神さまがいるのかどうか、よくわからなかった。
でも、人生を振り返ると、あのときも、このときも、神さまが守ってくださっていたとしか思えないことがたくさんあるんです。」
どうか、目に見えるものにとらわれすぎず、心の目と耳を開いて、神の語りかけに気づいてください。
そして、今ある恵みに感謝し、これからも信頼して歩んでいきましょう。
イエスさまは、弟子たちに「まだ悟らないのか」と問いかけました。
その言葉は、私たちにも向けられています。
神さまの愛と導きは、いつも私たちのそばにあります。
だからこそ、見えないものに信頼する心を持って、日々を歩んでいきましょう。