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みなさん、おはようございます。
今日の礼拝説教では、「祝福を受け取るためには」というタイトルで、旧約聖書から語らせていただきます。
本日の聖書箇所は、神に選ばれたはずのイサクとリベカの家庭、しかしその悲しくもこっけいな姿が描かれています。
神の祝福を受け継ぐために選ばれた家族なのに、そこには神の言葉も、神への信頼も見られません。
登場するのは、祝福を手に入れるために欲望や策略をむき出しにして走り回る人々の姿です。
イサクはエサウだけを、リベカはヤコブだけを愛しました。
その偏った愛は、子どもたちにそのまま受け継がれ、エサウは父の俗っぽさを、ヤコブは母の狡猾さを真似るようになりました。
夫婦には悔い改めの機会が何度も与えられていたのに、彼らは自分たちの歪んだ愛を正そうとしませんでした。
このような家庭の姿は、決して昔話ではありません。
現代の私たちの家庭にも、同じような歪みが潜んでいるのではないでしょうか。
愛が偏ると、傷や憎しみが生まれます。
神の祝福を受け継ぐためには、まず家庭が神に向かって整えられていなければならないのです。
ある教会で礼拝説教をしたとき、礼拝の後でそこの信徒の方がこう話してくれました。
「うちの父は、兄ばかりを褒めて、私にはいつも厳しい人でした。
兄が失敗しても笑って許すのに、私が同じことをすると怒鳴られたものです。
大人になっても、その傷は消えません」。
この方は、教会に通う中で少しずつ癒されていったそうですが、家庭の中で受けた偏った愛の痛みは、長く心に残るものです。
イサクとリベカの家庭も、まさにそのような偏った愛の中にありました。
神の祝福を受け継ぐべき家庭が、神の愛ではなく人間の思いによって動いていたのです。
では、なぜイサクとリベカの家庭はここまで歪んでしまったのでしょうか。
かつては優しさと信仰に満ちていた二人が、なぜここまで変わってしまったのでしょうか。
それは、彼らが神の祝福を軽んじたからです。その一言に尽きます。
今日の聖書箇所には、「祝福」という言葉が何度も出てきます。
まずイサクは長男であるエサウにこう言います。
「獲物を捕ってきて、私においしい料理を食べさせてくれないか。わたしがおまえを祝福するために」。
そしてそれを陰で聞いていたリベカは、弟息子であるヤコブに、兄に扮装して、代わりにその祝福を受け取りなさい、とそそのかします。
今日の聖書箇所は、全体がすごく長いので、聖書朗読はその前半部分だけですが、後半にも「祝福」という言葉が何度も登場します。
ヤコブはエサウに扮して祝福を受け取り、帰ってきてそれを知ったエサウは祝福を奪われたことに激怒して、弟を殺そうとします。
もともとはこの出来事の前にエサウはヤコブに祝福を一杯のスープで売り渡してしまっており、家族全員がそれを知っているのですが、彼らはここで一家総出で二つに分かれて、祝福争奪戦を繰り広げるのです。
イサクやエサウにとって祝福は、食事や獲物と引き換えに与えたり、受け取ったりできるもの、またリベカやヤコブも、策略を用いて祝福を手に入れようとしました。
ヤコブにエサウの服を着せ、ヤギの毛皮で変装させる。
しかし神の祝福は、そんな小賢しい手段で得られるものではないのです。
神の祝福とは一体何でしょうか。
ここに出てくる四人の家族のように、祝福をまるでバレーボールのようにやりとりするのは論外ですが、私たちクリスチャンの、祝福に対する考えも似たようなものに思います。
先々週のことですが、同盟教団の研修会が県外で行われたので、参加してきました。
今から30年ほど前、私が青年の信徒であった頃、同盟教団の全国集会にいくと、えらい先生が「同盟教団ほど祝福された教団はない」ということを言っていました。
どの教会でも、毎年一人は洗礼者が起こされていました。
どんなに小さな教会でも、教会学校には子どもたちがたくさん集まっていました。
同盟教団が成長している姿を見て、単立の教会や、歴史はあるけど衰退していた他の教団が加入してきたり、毎年着実に、教団は大所帯になっていきました。
しかし約10年ほど前から、同盟教団の信徒や洗礼者の数は、減少に転じています。
絶頂期を越えて、下り坂に来ています。
今回の研修会では、そのような現状を認識し、これからの宣教を考えようというのがテーマでした。
しかし残念だったことは、いまは危機の時代だというデータはたくさん報告されても、ではみことばによってどう戦っていくのかということはほとんど語られなかったことです。
教会の数が増えるのが祝福、洗礼者が与えられていくのが祝福、しかしそういった目に見える祝福ばかりに縛られていた私たちは、教師も信徒も悔い改めるべきではないのかということを思います。
本来、神の祝福とは、人や財産が増えるということではなく、神ご自身が祝福であると聖書は語っています。
しかし神を見るためには、砕かれた心と、みことばを求める思いが不可欠です。
一人一人の信徒が、自らの心を振り返り、みことばを求めていくこと、それがいま、神からのチャレンジとして与えられているのだろうと思います。
この創世記27章には、神の言葉が一度も登場しません。
人々は「主」という言葉を口にしますが、それは自分の都合のために使っているだけです。
神の祝福を求めながら、神ご自身を求めようとしない。
これは、現代の教会や私たち自身への警告でもあります。
ある牧師が語っていました。
「教会の奉仕に熱心な方がいました。
でも、ある時その方が『私がこんなに頑張っているのに、誰も感謝してくれない』と怒って教会を離れてしまったのです」。
その方は、神のために奉仕しているつもりでしたが、実は人の評価を求めていたのかもしれません。
神の祝福を求めるとは、神ご自身を求めることです。
人の目ではなく、神の目に喜ばれることを願う心が必要なのです。
神の祝福とは、神の臨在そのものです。
イサクやエサウのように食べ物と引き換えにできるものではありません。
リベカやヤコブのように人間的な策略によって手に入れてよいものではありません。
神を恐れ、神を愛し、神の前に自分の罪深さを嘆き、全身を投げ出して、自分の罪を悔い改める者、そのような者の中に神は生きておられ、祝福そのものとなってくださいます。
私たちは、神の祝福を受けるために、まず神を求める者となりましょう。
神の言葉に耳を傾け、神の導きに従い、神の愛に生きる者となりましょう。
神の祝福は、神を愛する者に確かに与えられます。
そしてその祝福は、私たちの家庭を、教会を、社会を、静かに、しかし確かに変えていくのです。
神の祝福を求めるとは、神の心に近づくことです。
神の愛に生きることです。神の真実に立つことです。
その歩みを、今日からまた新たに始めていきましょう。