恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「愛が歪んでしまう前に」(創世25:19-34)

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 みなさん、おはようございます。
今日は旧約聖書、イサクとリベカの夫婦の物語から、信仰を学んでいきましょう。

 リベカはパダン・アラムという遠い国からイサクのもとへ嫁いできました。
けれども、彼女を待っていたのは不妊という苦しみでした。20年間、子どもが与えられない痛みに耐えなければならなかったのです。
私たちの人生にも、「こんなはずじゃなかった」と思う瞬間があります。
クリスチャンであっても例外ではありません。
「神は祝福してくださるはずなのに、なぜこんなことが起こるのか」と思うこともあるでしょう。
しかし神の祝福は、単なるご褒美ではありません。
それは、神の働きのために私たちが用いられるための準備でもあるのです。
財産が与えられるなら、それは神のために用いる責任が伴います。
健康が与えられるなら、それは神に仕える力として用いられるべきものです。

 神が私たちを祝福される、とはその祝福を自分ではなく、誰かのために用いるためのものです。
だからこそ、神は祝福の前に試練を与えます。
用いるためには、私たちの信仰が育てられなければならないからです。
イサクの両親であるアブラハムやサラもたくさんの失敗を犯しました。
しかし神はその失敗を用いて、彼らの信仰を練り上げてくださいました。
そしてイサクとリベカも、さまざまな試練を通して神の計画にふさわしい者へと整えられていったのです。

 私たちは生活が自分の思うようにいかない時、「こんなはずじゃなかった」と口走ります。
しかし私たちの人生の主導権は、ただ神が握っています。
「こんなはずかどうか」は、ただ神だけがご存じです。
もし私たちが今、暗闇を歩んでいるように見えたとしても、それは私たちを神のこどもにふさわしい、内側から光を発する者として練り上げていくためです。
イサクもリベカも、そして私たちも、試練の中でそのことを学ばなければならないのです。

 ではまず夫であるイサクはこの試練にどう答えていったのでしょうか。
聖書は21節で、このように述べています。
「イサクは、自分の妻のために主に祈った」。
聖書には、信仰をもった夫婦が数え切れないほど登場します。
しかし聖書の中で、「妻のために」祈ったと記録されているのは、後にも先にもこのイサクだけです。
パウロは、愛弟子テモテへ送った手紙の中で、男がするべきことは「きよい手を上げて祈ることだ」と語っています。
とくに新潟では、杉の木と男の子は育たないということわざがあるくらいで、教会でも、男性は女性に引っ張られる傾向にありますが、しかし夫のほうから妻に「よし、祈ろう」と声をかける信仰がほしいと思います。

 二十年にわたる夫の祈りを通して、ついに神はリベカの体に子どもを宿してくださいました。
よかったよかったという感謝も束の間、今度は、胎内の子どもたちが激しく争います。
しかし二十年の夫の祈りは、妻の胎を開くだけではなく、彼女自身の心も開いていました。
初めは、経験したことのないことを前にして「こんなことではいったいどうなるのでしょう、私は」と口にしたリベカでしたが、しかし彼女はすぐに「主のみこころを求めに出て行った」のです。

 私たちは、毎日神の取り扱いの中で生きています。
昨日まではほほえみを向けて下さっていた主が、今日は態度を豹変し怒りをむけられているような思いにとらわれることも、信仰生活の中では時として起こります。
しかしそのような時、私たちは思い起こすべきでしょう。
神は私に特別の計画を持っておられるということを。
私たちにはそれを完全に知ることはできません。
しかしそれを求めにいくことはできます。
一人みことばの前に静まり、ただ神の思いを共有しようとする、幸いなる祈りと黙想の時。
主との交わりの中で立ち上がる力をいただくことができる場所。
それを私たちも持ちたいと願います。

 しかし、イサクとリベカの家庭には、やがて新しい問題が起こってきます。
それは「偏った愛」でした。
イサクは兄エサウを、リベカは弟ヤコブを、それぞれ愛しました。
しかしそれは純粋な子どもへの愛ではありません。
自分の欲望のために子どもを利用する、エゴでした。
聖書は、そんたくなしにこう記しています。

28節、「イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。
しかし、リベカはヤコブを愛していた」と。

 イサクは、エサウそのものではなく、彼が持ち帰る獲物を愛していたのです。
エサウは山で猟をすることを好む少年になりました。
獲物を持ち帰れば父が喜んでくれるからです。
しかし山に入っても獲物がとれなければ、父は露骨にがっかりしたことでしょう。
そんな育て方をされたエサウは、「結果がすべて」という価値観を持つようになります。
愛は条件付きでしか得られないものだと、彼は思い込むようになったことは想像に難くありません。

 リベカもまた、ヤコブを愛しました。
しかしそれもまた、純粋な愛ではありませんでした。
父に愛されない弟ヤコブへのあわれみですらありません。
リベカ自身が夫イサク、息子エサウと関係が薄くなっていくなかで、ヤコブを愛することで自分の存在価値を見出すような、偏った感情でした。
自分が必要だと認めてくれる者であれば、ヤコブでなくても、誰でもよかったのです。
愛と呼ぶにはあまりにもいびつ、しかしそのようないびつな関係の中でようやく支えられている夫婦や親子、家庭が、今日の社会ではあふれているのもまた事実です。

 夫婦関係、親子関係を支える基盤が、それぞれの間のコミュニケーションであることは言うまでもありません。
クリスチャン家庭においては、それは自分に語られている神のことばをいかに分かち合っているかということです。
それがなければ、家庭は分裂します。
神はリベカに、これからこの家庭から始まる、神の計画を確かに語っておられました。
「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。
一つの国民は、もう一つの国民より強く、兄が弟に仕える」と。
イサクとリベカは、この神の計画を共有し、双子の子どもたちを愛をもって育てるべきでした。

 しかし、彼らは話し合わず、それぞれが自分の思いで子どもをえこひいきしました。
家庭は分裂し、兄弟も傷つきました。
このような家庭を回復するために必要なものは「悔い改め」です。
父と母の偏った愛、兄弟の争い、それらすべてを神の前に悔い改めることが求められていたのです。
私たちもまた、問題が起こったとき、それを隠すのではなく、明らかにし、話し合い、信仰をもって赦し合うことが大切です。
しかし話し合う力も、赦す力も、私たち人間から生まれるものではありません。
イエス・キリストが私たちのために十字架にかかってくださったことを思うとき、赦しの力が私たちの中に生まれます。
イサクとリベカの夫婦の記録の中には、私たちにとって光と影、両方が描かれています。
偏った愛に生きるのではなく、本物の愛に生きるべき、と。
本物の愛、それは、いのちを捨ててまで私たちを愛してくださったイエス・キリストの中にあります。
これからの一週間、キリストにある愛をかみしめながら、それぞれの置かれている場所で歩んでいきましょう。