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みなさん、おはようございます。
今日の聖書箇所は、食べるものにも事欠く人々が集まった中で、イエスさまがパンを増やして人々に与えたという物語です。
じつは同じマルコ福音書の6章にも、これとよく似た話が記されています。
そこでは、五つのパンと二匹の魚が、五千人に与えられて、残ったパン屑を集めたら十二のかごに一杯になったという奇跡が記されています。
それに対して今日の箇所では、パンは五つではなく七つ、小魚は二匹ではなく少し、
そして五千人ではなく四千人に分けられて、
残ったパン屑は十二ではなく七つのかごに一杯になった、
とそれぞれの数字が微妙に異なっています。
なぜマルコは、似たような話を二度も記録したのでしょうか。
それは言うまでもなく、この出来事がとても大切だったからです。
マルコがとても大切だと考えた、というよりも、
イエスの後を継いで宣教の働きを担っていた弟子たちにとって、この奇跡は何度でも書かなければならないものだったということでしょう。
彼らは、このパンと魚を与えるという奇跡の中に、イエス・キリストというお方の本質を見ました。
このイエス・キリストは、心とたましいの飢え渇きを満たしてくださるお方です。
しかしイエスさまが満たしてくださるのは心の飢えばかりではありません。
物質的な飢えもまた、満たしてくださるお方なのだ、ということなのです。
先日、ある政治家が子ども食堂を視察した際、誕生日のケーキをごちそうになったというSNSの投稿がたちまち炎上するという出来事がありました。
いろいろと厳しい意見が飛び交いましたが、子ども食堂のような場所が地域に用意されていることに、素直に感謝したいと思います。
イエス・キリストが生きていた時代にはそのようなものはありませんでした。
人々は毎日の食事にも事欠き、常に空腹を抱えていました。
イエス・キリストが教えた「主の祈り」の中にも「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という言葉が出てきます。
食べものがあることは当たり前、という社会ではありませんでした。
そんな中、イエスさまは群衆を見て言われました。
「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。
空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなります」と。
イエスさまは、現実の苦しみに目を向け、「かわいそうに」と心を寄せてくださる方です。
教会に電話がかかってくるとき、「お金を送ってください」と求められることも多くなりました。
詐欺なのか、本当なのか、どちらなのだろうと思いつつ、話を聞きますが、そのときにすでに疑いながら相手の話を聞いてしまっている自分自身に気づくのです。
仮に詐欺だとしても、それをせざるを得ない苦しい事情もあるのかもしれません。
いずれにしても私は無力だ、と思います。
しかし私は無力でも、イエスさまは無力ではありません。
イエスさまは別のところで、「何を食べるか、何を着るかで悩んではいけない。
神は必要なものを与えてくださるお方なのだから」と語っています。
父なる神が、現実の問題を必ず解決してくださるという自信、確信に溢れています。
神の子どもである私たちが、決して見捨てられることはないのです。
しかしまず私たちがそれを信じなければなりません。
天に向かって叫ぶことをあきらめてはいけないのです。
アジアから来ている留学生が、日本人の学生にこう聞いたそうです。
「物はこんなに溢れているのに、なぜ日本では自殺者が多いのか」。
そしてその友人が「物は溢れていても、人々は心が飢えているのだ」と答えると、納得したそうです。
イエスさまは、そんな私たちを見て、きっと今も「かわいそうに」と言われることでしょう。
確かにイエスさまは、私たちの現実の必要に答えてくださるお方です。
しかし本当に必要なものは、食べ物や着物だけではありません。
心に空いた穴、そこから湧き出るむなしさ、それが解決しなければ、どんなに物で穴を塞いでも私たちは飢えから逃れ出ることはできません。
イエスさまが与えてくださったパンは「いのちのパン」でもありました。
目には見えないが、人の心を満たす霊的な糧です。
イエスさまは人々を地面に座らせた後、弟子たちにパンと小魚を分け与えていきました。
そして弟子たちがそれらを人々に手渡していくあいだに、パンと小魚はどんどん増えていきました。
これは、聖書のことばが人から人へと伝えられることで、心の飢えを満たす力になることを表しています。
聖書のことばは、ただ持っているだけでは意味がありません。
それを人に伝えるとき、奇跡が起こるのです。
ユダヤ人も、異邦人も、そして今の日本人も、イエスさまの目には「羊飼いを失った羊」として映っています。
イエスさまは、どんな時代、どんな国の人にも、変わらないあわれみの目を向けてくださいます。
私たちもその視線を持ちたいのです。
家族、同僚、隣人を、イエスさまのように見つめていきましょう。
そして、私たちの手にあるみことば、「いのちのパン」を、周りの人に手渡していきましょう。
時には拒まれるかもしれません。でも、それでも差し出し続けるのです。
この一週間、与えられているみことばをかみしめ、周りの人と分かち合っていきましょう。