恵みは坩堝の中に

日本同盟基督教団・豊栄キリスト教会公式ブログ

「十字架だけが私のすべて」(ガラテヤ2:15-21)

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 みなさん、おはようございます。

 今から約60年前、敬和学園高校が創立されたとき、校長である太田俊雄先生は開校式でこう祈ったと伝えられています。
「もし敬和学園の教育が右や左に曲がるようなことがあったら、どうか御名の栄光のために、学園をつぶしてください」。
一つの学校を始めるためには何十年の時間、何十億の資金、そしてそれ以上の人々の思いを必要とします。
「学園をつぶしてくれ」なんていう祈りは、それらに対する裏切りではないのか。
しかしもし学校が神の御心からそれるならば、潔く原点に立ち返る覚悟、それを太田先生はお持ちでした。
そして私たちにもその力の源、信仰があります。
神がすべてを始め、すべてを導き、すべてを完成される。
だからこそ私たちは、過去の伝統に縛られず、いつでもゼロからやり直すことを恐れません。
たとえ一度、あるいは何度でも、それまでのすべてが壊れても、神は必ず再創造してくださる、という信仰です。

 信仰とは何でしょうか。
多くの宗教は、人が心の拠り所を得るために、献金、宗教団体への奉仕、あるいは社会への善行、それらを信仰と説明します。
しかしキリスト教は、「人が何をするか」ではなく、「神がすでに何をしてくださったか」に焦点を当てます。
信仰の本質は、私たちの行いではなく、神の成し遂げられた事実に目を向けることなのです。

 ここで私たちは、このガラテヤ教会への手紙の作者、パウロの言葉に目を留めてみましょう。
彼はかつて熱心なユダヤ教徒であり、律法を守ることこそが救いへの道だと信じていました。
イエス・キリストを、偽物の救い主とみなし、クリスチャンを迫害していた人物です。
しかし、復活のキリストに出会った彼は、自分の信じていたことが誤りであったと悟ります。
そしてイエス・キリストを真の救い主と信じ、人生が180度変わりました。

 彼の信仰は、16節の言葉に表されています。

 「しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。
律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。
というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。」

 人は皆、罪人です。
どんなに努力しても、神の命令を完全に守ることはできません。
だからこそ、イエス・キリストが私たちの代わりに十字架にかかり、神の御心に従ってくださった。
そのイエスを信じることが、救いの唯一の道なのです。
すべてのクリスチャンが、その信仰にとどまることができたら、何も問題はありません。
しかしパウロはガラテヤ教会の中で起きているうわさを聞き、嘆きます。
十字架の恵みによって救われたはずのクリスチャンが、再び律法によって救いを得ようとする姿に心を痛めているのです。18節をご覧ください。

「もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。」

 この言葉の意味はこうです。
ガラテヤ教会の中に信仰を踏み違えている者がいる。
すなわち、十字架の恵みに、律法の行いを「上乗せ」しようとする人々が起きている。
彼らは、律法を行うことで義と認められる者はいないという言葉をかつて聞いたにもかかわらず、律法も守ればもっと神に喜ばれるだろう、と勘違いしている。
十字架にしか救いはない。
しかしその十字架だけでは不十分だと考え、十字架に混ぜ物をすることこそは、自分自身を違反者にしてしまうことなのだ、と。

 正しいものと間違ったものが並んでいれば、人はすぐに気づきます。
しかし、正しいものの中に間違ったものが入り込んでしまうと、人は間違いに気づくことができません。
それを正しいものの一部だと誤認してしまうのです。

 最後に、その一つの事例を紹介します。
繰り返して語ってきたことなので、耳にたこができたという方もいるかもしれませんが、私と同じ過ちを犯すことがないように語ります。
私がクリスチャンになったのは高校三年生の時でした。
洗礼を受けた翌週から、礼拝の司会や教会学校の教師を務めました。
最初は喜びに満ちていました。
救われた感動があり、時間もあり、教会からの期待も感じていました。

 しかし大学を卒業して社会人になり、忙しさの中で奉仕を続けるうちに、喜びが失われていきました。
礼拝に出席することがつらくなり、奉仕の中でもイライラすることが多くなりました。
なぜ自分がそうなってしまったのか、最初はただのストレスだと思いました。
仕事の要領をつかみ、自分のペースでやっていけば、礼拝の居心地の悪さや、イライラも収まってくるはずと考えていました。
しかしそうはならなかったのです。

 私にとって、何が問題であったのか、今ではわかります。
私にとって奉仕は、神への喜びのいけにえではなく、厳格な神との関係を穏便につなぐための糸、あるいは手土産のようなものでした。
ただ十字架によって救われた恵みではなく、奉仕を通して、自分はクリスチャンとして何とか認められているという、間違った信仰に陥っていました。
聖書を読むのは神の声を期待して聞くためではなく、聖書を読まなければクリスチャンとは言えない、という自分で作ったルールのためでした。
祈り、交わり、証し、本来はすべてそれは喜びが原動力のはずですが、喜びはなく、義務感が私の中を支配していました。

 それでも神は私をあわれみ、信仰から完全に離れてしまう前に、私に気づきを与えてくださいました。
その気づきは、私にとって信仰の原体験であると共に、自分の醜さをこれでもかと見つめなければならない経験でしたから、みなさんにもそれを経験してほしいとは思いません。
しかし私の場合は、それを通して、偽物の自分の義と、本物の十字架の義を取り分けることができました。
私が何かを行うから救われているのではなく、ただキリストの十字架の犠牲によって救われたのだと信じることができたのです。

 パウロはユダヤ人のエリートでした。
しかし彼は、キリストを知ったとき、自分の積み重ねてきた努力を「ごみのようなもの」と言い切りました。
あなたの人生が栄光に満ちるのは、あなたが何をするかではありません。
すでにキリストが、あなたのために、あなたを愛し、あなたの罪の身代わりとして死んでくださった――その一度きりの歴史的事実を信じることによって、人生は変わるのです。
パウロは19、20節でこう告白しています。

「私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」

 私もまた、この言葉によって八方ふさがりの中から解放されました。
私の人格や実績ではなく、ただキリストが私のために死に、私の中に生きてくださることだけが、私のすべてです。
一人ひとりが、十字架、ただそれだけにしがみつく者として歩み続けましょう。