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みなさん、おはようございます。
8月最初の週の礼拝説教は、旧約聖書のイザヤ書6章から、イザヤが神の働きに招かれたときのことを一緒に学びたいと思います。
最初に1節をお読みします。
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た」。
「ウジヤ王」とは、預言者イザヤの時代、約50年間にわたって、南ユダ王国を治めていた王さまの名前です。
彼はたいへん優秀な政治家でした。
聖書では、彼は農業に力を入れて、イスラエルの国力を高めたと記されています。
しかし優秀であるということは、誘惑も多いということです。
ウジヤはやがて、王でも入ってはいけない神殿の最奥部に入り、神に香を焚きました。
しかしそのさばきとして、彼はツァラアトという重い皮膚病に冒され、死ぬまで隔離されてしまいました。
そのウジヤ王が死んだ年に、イザヤは神の幻を見ます。
イザヤもまたこの時点では神殿に入る資格はありませんでしたから、実際に神殿の中で体験したことではなく、一つの幻であったのでしょう。
そしてそこで彼は、高く上げられた御座に着いておられる主なる神に出会いました。
その裾は神殿に満ちていた、とはこの神はとうてい神殿の中に収まるような小さな方ではないということを表します。
その周りにはセラフィムという、不思議な姿をした天使たちが賛美をささげており、その賛美の歌声で神殿の礎は揺るぎ、神殿の中は神の栄光の煙で満たされる、という壮大な幻をイザヤは見るのです。
そのとき彼は感動して涙を流したでしょうか。
いいえ、神の栄光に触れたとき、イザヤの口から溢れたのはむしろ絶望でした。
5節をご覧ください。
「ああ。私は滅んでしまう。
この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。
しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」。
イザヤも私たちも、まことの神を信じている者たちです。
私たちは、イエス・キリストの十字架の贖いを信じたことによって救われました。
生まれながらの罪人であった私たちはイエスの血潮によって洗われて、すでに私たちから罪のさばきは取り去られた、という確信を持っています。
しかしそれでも私たちはまことの神に出会ったとき、自分が罪人であり、汚れた者であることを自覚させられる。
このイザヤの経験はそのことを教えてくれています。
救われるとは決して罪を犯さない、完全な者にされるということではありません。
むしろ自分が罪人であることを忘れない人になること。
それでもなお神はこの罪人を愛してくださっていることを忘れない人になることです。
朝、起きたとき、障子やカーテンの隙間から差し込んだ光の中に、無数のほこりが舞っているのを見ることはないでしょうか。
私たちはイエス・キリストによって罪からきよめられました。
しかし罪からきよめられたがゆえに、逆に自分の中には、それまで気づいていなかった罪さえも気づかされるということも信仰生活の中で経験していきます。
そんないつも罪ばかり気づかされていたら、楽しくないでしょうと言われるかもしれません。
しかし罪の気づきと共に心に沸き起こるのは、こんな罪人をも愛し、共に歩んでくださるイエスさまの愛です。
もし私たちが、自分自身の罪を見つめ、なおかつイエスさまの愛から離れないのであれば、神は私たちを用いてくださいます。
イザヤは預言者として用いられましたが、私たちはある者は牧師や宣教師として、そしてある者たちは一人の信徒として、それぞれの置かれている場所で用いられていきます。
それはたいへんやりがいのある人生です。
しかし決して楽な道のりではないことも聖書は教えています。
8節をご覧ください。
「私は主が言われる声を聞いた。
「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」
私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
まさに、青年イザヤが、自分の人生を神にささげた、感動的な場面です。
しかしそれに対する神のことばは、イザヤの想像を超えて、厳しいものでした。
9節、「すると主は言われた。
「行って、この民に告げよ。
『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。
この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。
彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒やされることもないように。」
神はイザヤに警告しました。
あなたがどんなに語っても、人びとは聞かない。
語れば語るほど、人びとはかえって心をかたくなにし、あなたに向かって拳を振り上げる。
しかしそれでもあなたは語らなければならない。
語り続けなければならない。
このイザヤ6章9節の言葉、「聞き続けよ、しかし悟るな」は、じつに新約聖書に6回も引用されています。
この事実は、宣教の過酷さが、決して旧約の預言者イザヤだけの闘いではなく、新約の民である私たちすべてに背負わされていることを物語っています。
私たちは決して心の強い者たちではありません。
かつて海外に派遣されていった宣教師たちのように、命をかけてみことばを伝える、という覚悟まではありません。
それでもなお、自分にできるところまで、みことばを宣べ伝えていきたいと願うのです。
たとえ家族や友人を含めて、まわりの人々が聞いてくれても、聞いてくれなくても、みことばを宣べ伝えていきたいと願うのです。
イザヤは汚れた唇を、セラフィムが持ってきた炭火できよめられたと書いてあります。
なぜ神はきよい天使たちに伝道を託されなかったのでしょうか。
それは、彼らは罪を経験していないからです。
人の心の闇を、経験として知らないからです。
神は、罪を経験していない天使たちではなく、罪を経験し、かつそこから救われた経験を持っている私たちに伝道を託されました。
私たちのほかにはだれも世に罪を示し、救いの必要を語ることができる者はいません。
だからこそ、回らぬ舌をもって、みことばを伝えていくのです。
福音をうまく説明できない、たどたどしく語ることしかできない。
それは大事なことではありません。
大事なことは、「語ることをやめない」という一点だけです。
語り続けるならば、私たちではなく、聖霊が人々の心をいつかとらえてくださいます。
聖霊が罪人の心に働くとき、岩のようにかたくなな心も砕かれます。
しかしダイナマイトには導火線が必要です。
私たちが導火線となって、語り続けることをやめないこと、それがいつかダイナマイトが爆発するために必要です。
世界はますます混迷を極めています。
しかし私たちに与えられた希望、一つの切り株、聖なる裔、それがイエス・キリストです。
ただこのイエス・キリストを信じるならば、「立ち返っていやされることのないように」という、がんじがらめの罪の呪縛から逃れることができるのです。
伝道はやりがいがある仕事ですが、簡単な仕事ではありません。
しかしそうであっても、私たち一人一人は、それぞれの場で、神の働きに召されています。
この一週間も、それぞれのやり方で、このイエス・キリストを証ししていきましょう。